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​初瀬

「百聞は一見に如かずとはよく言ったものだな」
そう静かに呟いた長谷雄は、舞台の先まで歩いていくと、そのまま欄干に足を掛け、ぐっと身を乗り出した。
何してやがる、と俺が口に出す間もなく、目の前から長谷雄は消えた。否、自ら落下したのである。
全身の血の気がさっと引く。ついさっきまで長谷雄がいたその場所まで走って行き、下を覗き見るが、木々に阻まれ“結果”を目視することは出来ない。
どうしたことだ。あいつは自分で命を絶ったというのか。
いくらあんなことがあったとは言え、それは死を選ぶほどのことなのか。
そんなに。そんなにもお前は奴を───?
……しかし、そこまでの選択はしなかったものの、あれが悲劇で、少なからず奴と関わりのあった者ならば大きな衝撃を受けたのも事実ではある。
慕う者も、嫌う者も皆。奴の存在の大きさと、それを失った嘆きは同じだった。
馬鹿な奴だと、何故もっと上手くやれなかったのかと。嘲笑や下卑た言葉の中に、そういう声も聞こえた。クソ真面目で、不器用で、立ち回りの下手な人間の最後がこれなのかと。
だとしても、お前が死ぬのは違うだろう。生きてこそ出来ることがあるんじゃないのか。
「んな綺麗事は聞きたくもねぇってか!?」
老いた体に鞭打って、破れそうな心の臓の訴えを無視しながら、ただひたすらに、まるで転がるように“その場所”へと駆け下りた。

果たしてそこには、何事もなかったかのように一人佇む長谷雄がいた。

「…へ……」
随分と、間の抜けた声が漏れ出た。
そんなはずはない。あれほどそこには肉塊と血溜まりがあることを覚悟していたというのに。何故かそこには、俺の想像したものは何一つなく、ただ一人の人間が、綺麗な姿でそこに立っていた。
「なん……で……」
「長谷観音の加護、とでも言おうか」
落ちる前と同じく、平坦な声で、長谷雄は言う。
「先のない医の道を捨て、学の道を拓くため、ここの観世音菩薩に祈って生まれたのが私。金剛童子が姿を変じているだけで、最初から私の命は仮初であり、人のそれとは違うのだ」
だから私に“死”というものは存在しない、と長谷雄は告げた。
信じられないし、信じたくはない。が、証拠が目の前に出揃っている以上、俺は信じるしかなかった。
「あの人が遠い筑紫で息絶えたと聞いて、私はすっかり生きる意味を失った。そもそも、あの人と出会うまでの私など、“ただ生きていた”だけなのだ。息を吸って吐くだけの日々に、彩りをくれたのがあの人だった。だからこそ、この色のない世界に取り残されたことに耐えられず、絶望して、命を絶とうとしたらこれだ。笑えるだろう」
曰く、死のうとしても死ねないことに、その時気づいたのだと言う。
「父から、長谷観音に祈ったことで私が生まれたのだという話は何度も聞かされて来たが、それがまさか真だなんて誰も思いはしないだろう。当の父とて知らずにいたと思う。……人の姿を模った、人ならざる者。それが嘘ではないと、今のを見てお前にもよく分かったろう。こうなればもう、願いは叶った故“終わらせて欲しい”と大元に祈るしかない。だから私はこうして初瀬に足を運んでいるのだ」
飽きもせずこいつが願い続けて来たことは、この観音が得意とする利益とは真逆のことだった。しかしその願いが今まで聞き届けられていないということは……死ぬことを許されないということなのだろうか。周りの人間がいなくなった後も、永久に生き長らえてしまうとしたら。それは、とても悍ましいことに思えた。
「私はただ……あの人と、菅三殿と同じ所へ逝きたいだけなのに。私がただの人であったなら簡単に叶うようなことなのに。それすら遂げられないなど、私は、私は……っ」
「……仏の道が言うことには、お前の死に方じゃあどちらにしてもあいつと同じ所へは行けないだろうよ」
俺の言葉に、長谷雄が顔を上げた。
「あいつが人として出来た人間だったとは、手放しには言えないが、恐らくは浄土へ行けないほどではないだろ。とすれば、自ら命を絶ってしまえばお前は浄土へは行けずに地獄行き。二度と会うことは出来ないぞ」
ここからは適当なことを言わせてもらうが、と前置きして俺は更に続ける。
「人の形をしたものに、あからさまに永久の命をやるとは俺には到底思えん。それにお前が老いていることに説明がつかんだろ。人と同じ死ではないにせよ、そのうち“終わり”は来ると俺は思う」
「………」
「ただ、あいつと同じ所へ行くとも思えない。元を糺せばお前はここの生まれなんだろう?それなら輪廻からは最初から外れていて、終わった後にはまたここへ還って来るだけかもしれん」
こいつにとって、唯一の希望を断つようなことを言った自覚はあった。
しかし、“死ねない”体である以上、こいつは自分で語った通りに「人ではない」わけで、それが死後だけ人と同じ道を辿れるとはどうしても思えなかった。
最初から最後まで、人ならざる者として存在しているという推測が、残念ながら正しかろう。
「“だからお前は二度とあいつには会えない”」
導き出した答えをきっぱりと言い放つと、長谷雄は谷中に響くような深い嘆声をあげた。

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