夜食
子供を産んでからというもの、眠りが浅くなり少しの物音でも目が覚めるようになった。私はあまりに短い睡眠だと翌日支障を来すので早々と眠ることにしているが、夫は殆ど毎日夜更かしをし、挙げ句物音を立てては私の睡眠を妨害するのが常だった。
今日も書斎に遅くまでいたかと思えば、閨に何かを取りに来たのかそっと入り込み、私に散々小言を言われているにも関わらずガタンと物音を立てた。
「……道真」
「すまぬ」
叱られることを覚悟した童のような夫に、呆れて溜息を吐く。
「何を探しておいでですか」
「……小腹が空いて、昼間出されて残しておいた唐菓子を取りに来た」
「全く。変なところに食べ物をしまい込んで、その上こんな夜更けに唐菓子ですか」
「されど腹が空いたのだ」
子供か。
「良い時間ですしもう床に就いたら如何ですか。夜中に食べると良くありませんよ」
「そんなことは分かっている。でもあと少しなのだ」
そう訴える夫に、私はまた溜息を吐いた。こうなると夫は何を言っても無駄である。
「……分かりました。紅梅で少し待っていてください。何か作りますから」
そう言って私は仕方なく身を起こした。こうなれば寝ようとしてもどうせ眠れないのは目に見えている。さっさとこの人に何か食べさせて静かにさせてから一緒に床に就くのが最短かつ最善だろう。
「いや、そこにある唐菓子で充分……」
「昼間出したものですよ?それはもう捨てます。 粥で良いですね?」
「……うん。頼む」
「はい」
部屋から出ていく夫を見届けてから、私は衣桁の背子に手を伸ばした。
厨へ行き、櫃を覗くと夕餉の残りの硬粥がまだあった。よし、これなら炊くところからでなくて済む。
早速鍋を取り出して水を注ぎ、竈に火を入れる。息を吹き入れて沸騰させたら一度火を消し、そこへ棚にあった昆布を小さめに切って投入する。これなら四半刻と待たずに出汁が出る。勿論水に浸して数刻待った方が良いのだが、今日は生憎時がない。
待っている間に何か一緒に煮込めそうなものを探すことにする。貯蔵庫を見てみれば蘿蔔と人参が残っていたので、少しもらうことにして一口大に切り揃えた。鍋から昆布を取り出して、これも同じく切り揃える。なかなか上等なものなので、具材にもなるだろう。
もう一度火を起こし、湯気が立って来たところで、切った蘿蔔・人参・昆布、そして硬粥を入れる。野菜に火が通り、粥が柔くなるのをしばし待つ間に、器と匙を準備。椀に水も注ぎ入れる。茶はこの際我慢してもらおう。ここまで二度も火起こしをしているのだ、二つも鍋を使うなど冗談ではない。
ぐつぐつと煮立って来た鍋を確認し、塩と醤で味を整える。濃いものが欲しくなる刻限かもしれないが、体のことを考えれば少し薄いくらいで丁度良いのだ。
器に汁粥をよそい、折敷に載せ、厨を後にした。
「道真、粥が出来ましたよ」
呼び掛けると、すぐさま夫が顔を出した。
「存外早かったな」
「少々工夫して時間を短縮しました」
机の上が片されるのを待ち、そこへ折敷を置くと、夫がこくりと喉を鳴らすのが聞こえた。余程腹が空いていたらしい。
「どうぞ」
と、私が言うが早いか、手を合わせた夫は匙を手に取り、それから一心不乱に粥を口に運んだ。……食べ方まで子供のようである。いや、うちの子供達とてもう少し落ち着いて食べる。
「ゆっくり食べないと詰まらせますよ」などと言った傍から苦しそうな顔をするので水を差し出せば、それも一気に飲み干した。そしてまた残りの粥を掻き込む。人の話をまるで聞いていない。
あれだけ手をかけた夜食をあっという間に食べ終わり、人心地着いたらしい夫は満足そうに息を吐いた。
「美味かった」
「それは良うございました」
折敷を下げ、立ち去ろうとした時、不意に夫が口を開いた。
「昆布の歯応えが気に入った」
「……そうですか。あれは出汁を取った後、勿体ないので刻んで入れたのです」
「なるほど。 また作ってくれ」
「………」
何気なく放られたその言葉は、面倒でもあり、嬉しくもあった。
またこんな時間に食事を作るのか……という思いがまず先に立ったけれど、菅家へ来てからというもの、北の方という立場故になかなかさせてもらえなかった料理が久々に出来たことも、それを夫に喜んでもらえたことも、やはり嬉しかったのである。
「分かりました。また作って差し上げますから、あと少ししたら床に就いてくださいね。それまでには私も片付けをして部屋へ戻りますから」
「分かった」
珍しく素直に返事をした夫を残して、私は今度こそ腰を上げた。