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大蔵善行の「地仙」について

  • 「菅原道真とは当時の学界の双璧で、「天神」道真に対して地仙と呼ばれた」

  • 「私塾を経営し、藤原基経・藤原時平・藤原忠平・平惟範・三統理平・紀長谷雄ら多くの人々に教授した。その一門は政・学界に広がった」

  • 「昌泰の変直後の延喜元年(901年)9月に、道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵 善行が、門下生たちから盛大に七十の賀を祝福された。この”門下生たち”こそが藤原時平派閥であり、大蔵一門と出世を争い、変で追放された人々は菅原道真門下生である。すなわち、大蔵一門と菅原一門の対立という図式も成立する」

(いずれもwikipediaの大蔵善行、昌泰の変より引用)

 

この「地仙」とは何か、本当に学界の双璧をなしていたのか、ということについての考察。

 

 

まず、「菅原道真とは当時の学界の双璧で、「天神」道真に対して地仙と呼ばれた」という話の出典は政事要略。政事要略は一条帝の頃に成立しているため、後付けや創作の可能性が高い。地仙はさておいても道真が天神とされたのは死後なので、生前に双璧というのは考えられない。

ちなみに一条帝の頃に北野天満宮で初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られているため、怨霊から天神に段々移り変わって来て信仰も高まって来た頃ではないかと思われる。

 

【政事要略に当たる】

(Wikipediaの「政事要略95」だけでは何のこっちゃ分からないし時系列の索引から善行が出てきそうな場所を片っ端から探して東宮学士の話でようやく名前を発見、地仙に行き着きました)

「善行は87歳で子供を作り、90歳以上生きた人で、しかも耳目聡明、行歩軽健という凄い爺さんだったが、それは「鍾乳丸を一日一丸」常に服用していたから」

というエピソードが載っている。

◎鍾乳丸:要するに鍾乳洞の石のことなので主成分は石灰(炭酸カルシウム)。まぁ食べても大丈夫かな。どうも炭酸カルシウムって胃酸を抑える働きがあるようなのでもしかして善行さんは胃痛……?

「鍾乳石類はかつては石薬として採取された。正倉院の宝物の一つに鍾乳床がある。10世紀の「延喜式」巻37典薬寮付録の「和名考異」や、14世紀の「康頼本草」にも、秋吉台や阿哲台からの鍾乳床、殷蘖(げつ;正しくは木が子)、孔公蘖(同)の産出について記述がある。これらは鍾乳石類を示す語である。秋吉台では、1843年と1847年に萩の医学館の者が鍾乳石採取に出張した記録がある。(wikipedia 鍾乳洞より)」

 

善行の話は厳密には、政事要略に収録されている「服薬駐老験記」に記載されている。

 

<余談 服薬駐老験記に記された薬について>

  • 枹杞:クコの実。竹田千継(長寿の効果を知り、栽培。典薬允となり文徳天皇に枹杞献上)と春海貞吉が常用。

  • 露蜂房:アシナガバチやスズメバチの巣。藤原冬緒が常用。

  • 槐子:エンジュの実。同じく藤原冬緒が常用。

  • 乾石決明屑:アワビやトコブシの貝殻を乾かし砕いたもの。十世王が常用。

  • 鐘(鍾)乳丸:鐘(鍾)乳丸:上述。大蔵善行が常用。

千継は101、貞吉は119、冬緒は84、十世王は85まで生き、善行は当時90。

 

服薬駐老験記は善家異記を引用したもの(本田 義憲(1992)『説話の講座第4巻』には秘記と同一異名か、とある)。

つまり善行を地仙とか呼び出したのは清行の可能性もある。

服薬駐老験記には「皆が地仙と呼んだ」とあるが、この文まで善家秘記(異記)にあるとすると、死後に天神と呼ばれた道真より早く呼ばれていることになる(これが善家秘記にないのならただの後世の天神に対する後付けと考えても良く、政事要略だけならちょうど道真≒天神成立後なので全て作り話と断じることもできるがそうではない)。

 

【地仙という言葉】

地仙という言葉自体は抱朴子などにあるため全くの創作でもなく元から存在する言葉。

◎抱朴子:仙人になるための修行方法について記した内篇と、それ以外の雑多な事柄を記した外篇に分かれる。内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。現世の肉体のまま虚空に昇るのを「天仙」、名山に遊ぶのを「地仙」、いったん死んだ後蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが「尸解仙」であるとし,尸解仙を下位に置く。(神霊廟だなぁ)

 

【天神と地仙】

天神・地仙は案外たまたまなのか…?落雷事件で天神と結びついた道真と、鍾乳石を服用し老いてもなお健康で高齢で子供を作った俗世に生ける仙人のような善行……単にそういうことなのかもしれない。そうしてついた呼び名がたまったま対照的なものだったので後世ライバル的な感じに思われてしまったのかも知れない。

滝川幸司(2019)『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』では、菅家学閥に対抗する存在として、大蔵善行学閥が想定されていたが、その存在は現在では否定的であると書かれているが、じゃあ何で「天神に対して地仙」というかたちであたかも好敵手のような位置付けにされたんだろう。

 

<考えられる理由列挙>

  • 時平に教授していたから。

  • 東曹だったから。

  • 昌泰の変直後に、七十の賀を開いたから。

→「まさに文人達の道真を追い払った勝利の宴」とまで言われてしまうこともある。タイミングもそうだが、面子のほとんどが当然ながら東曹であり(単に同曹かもしれないが、門下・弟子とも考えられるような面々)、道真の西曹とは自然相対するかたちになるため対立構造と考えられてしまったかもしれない。また西曹の人間と交友が深かった基経に対して時平は善行に師事したこともあって東曹寄りであり、東曹の人間が集まると分かりやすく時平と交友のある人間が集まることにはなる。何より時平自身も参加しており、善行というよりは時平との関係から呼ばれたものもいる。

  • 日本三代実録の提出時期

→編纂に関わったのは主に源能有・道真・時平・善行・理平だが、最終的に完成・奏上したのは道真左遷後で、時平と善行の名前しか序文にない(理平は地方官になって途中で抜けた。能有は死亡)。これは自分達の手柄にするためわざと奏上時期をズラしたという説もあり、これによって時平と善行による昌泰の変陰謀論まである。

 

【結論】

「藤原時平、小野美材の詩中に、この種の賀詞としていささか常套的な慣用であるが、彼を「地仙」とする句がみえることも一応注意しておこう。」 渡辺秀夫(1976)「紀長谷雄について─神仙と隠逸─」

この一文(というか七十賀で詠まれた詩を先に確認すべきだったとは思うが)で、"地仙"は道真の生前からあったもので、むしろ天神の方が後なのではないかという推測が当たっていたことが分かった。

清行のみならず弟子の時平も善行と同曹の美材も地仙と呼んでいたとなると、最早"地仙"は善行のあだ名みたいなものだったのではと思う。「皆が地仙と呼んだ」は本当だったということ。

 

天神と地仙があまりに綺麗に対照的なので学界の双璧だったと言われてしまうが、天神は道真の死後で、地仙は善行の生前からついてるので全然関係ない。

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