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​宣来子の死から神格化まで

転宅

歴史と地理4(3)山田新一郎「菅公とその夫人」によれば、道真の左遷後、宣来子は左京五条の菅原邸(現菅大臣神社)から吉祥院(現吉祥院天満宮)へ移り住んだと言う。

「讀家書」の頃にはまだ菅原邸には住んでいたが、延喜元年(901年)12月に家書を送り、それから数ヶ月の間に菅家邸に住めなくなり、吉祥院へ居を移した模様。讀家書の時点で人に土地を貸したり木を売ったりと相当生活は苦しそうなので、状況的にも整合性は取れる。

吉祥院天満宮入口には「北政所吉祥女御住所蹟」という石碑がある。このことからも宣来子がこの地に住んでいたことが分かる。

※政所=北政所の略。三位以上の貴族の妻のこと。

 

 

 

 

 

菅大臣神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菅大臣ガレージの看板。現在も境内の一部を駐車場として貸し出している。

また境内には民家も普通にあるし、ubereatsも入ってくる。

 

                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北政所吉祥女御住所蹟。境内入口横にひっそりとある。

吉祥院について

吉祥院は菅家の菩提寺であり、道真の五十歳の賀もこの地で行われた。

遣唐使だった清公が、その船路で嵐に見舞われ難破しかけた際に吉祥天女に救われたことがきっかけで、帰朝後古人及び清公の所領であったこの地に仏堂を造り吉祥天を安置したのが始まり。

吉祥院天満宮の縁起には、遣唐使船に乗っていた清公と最澄が嵐に遭った時吉祥天女に祈ったところ、波が静まったことから清公が信仰するようになったとある(空海がいないのは単純に船が違ったからだろう)。

現在も吉祥院天満宮境内には「吉祥院」という別の建物があり、吉祥天女・清公・是善・観世音菩薩・薬師如来・伝教大師(最澄)・孔子が祀られている。神仏分離令はどのように掻い潜ったのだろうか。

 

吉祥院天満宮本殿。すぐ隣に幼稚園や公園があるためか、境内は常に子供向けの置物がたくさんある。

境内が広く、自転車の練習をしている親子がいたりして、ほっこりする神社だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉祥天女社(吉祥院)

 

死期

・「菅原道真(西日本人物誌12)」巻末年表に「902年(延喜2年)12月25日 島田宣来子死去、53歳」という記載がある。

・紅姫稲荷神社の由緒に「~翌年(902年)秋に隈麿君が夭折され、数月後に京都の御奥方がご他界、さらにその悲報が舞い込んだ十日後の延喜3年(903年)2月25日には、持病に苦しんでおられた道真公が薨ぜられ~」とある。

※因みに紅姫稲荷神社由緒には、宣来子が太宰府に随行しなかったのはその時病に罹っていたから、とある。

 

宣来子の死期については、辛うじて分かるのはこの二つくらい。どちらも902年の秋冬頃なのは同じだが、どうしてその頃と推定出来るのかが分からない。

むしろ紅姫稲荷神社くらいしか本来情報がなかったところを無理矢理比定したか?いや、日付ずばりは難しいだろう……。

とは言え、讀家書で書を送った延喜元年12月以降であり、条件には一応合致している。

(もしも12月25日が本当なら二ヶ月後に道真亡くなるんだよな。最高。しかも紅姫稲荷神社の由緒だと宣来子の死のショックで体調を崩して亡くなったように読めるし。ありがてぇな)(宣来子の命日が終天神だったらそれはそれで美味しい。というか宣来子も25日絡みなんかーい!とは思う)

 

宣来子が最期を迎えた場所なので、吉祥院天満宮の周辺は「吉祥院政所町」という。神社隣の公園は「政所児童公園」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住所を示す看板

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓所

吉祥院天満宮を出て少し歩いたところに「北政所御墳墓」がある。吉祥院に移りそこで亡くなったとすればこの墓は信憑性も高いと思われる。

 

 

 

 

北政所御墳墓。御墳墓の後ろには「西政所公園」がある。ここはイチョウの木がたくさん植えられている。

イチョウの花言葉は「鎮魂」であり、ぴったりだなぁと思う。

秋に行くととても綺麗だが……銀杏が臭くてやばい。足元注意。

<御墳墓横変遷>

御墳墓の右隣の土地は行くたびに変わっている。

 

①営業を終えたように見える床屋があった。

 

 

 

 

 

 

②床屋がなくなり更地になった。緑の屋根を目指していつも歩いていたのでなくなっていて驚いた。

コーンなどあるので何か建つのだろうかと胸を躍らせるも、コロナ禍になってしばらく行けなかった。

③コロナ禍が落ち着いた後に行くと、アパート「ビオーラ令豊」が建っていた。

月7万くらいで宣来子の隣に住める、大変魅力的な物件。

 

今でこそ妻は夫の家の墓に入ることの方が多いが、当時の妻は生家の墓地に埋葬されるのが原則だったそう。姓も変わらないし、死んでもそこは分けられていたのだろう。だから宣来子が夫の菩提寺である吉祥院に埋葬されるのは例外的なのだが、五条の邸に住めなくなり吉祥院に居を移してそこで亡くなったという経緯と、当時の左遷に伴う事情を考えれば(要するに罪人なので生家には戻れないのでは?)、ここに葬られていても不思議ではないのではないか。

 

因みに吉祥院は菅家の菩提寺なので、祖父清公や父是善の墓も周辺にある。

昌泰の変がなければ道真もこの周辺に埋葬されたはずだったのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​「菅原清公卿御墳墓通路」という案内のある道をひたすら奥へ歩いていく。とても狭い。

 

清公の墓は、調べると昔は周りが草だらけだったようだが、今はこのように舗装されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

是善の墓は、香泉寺の境内にある。一般に開かれた寺ではなく檀家のための静かなお寺という感じ。

 

吉祥院は彼女が実際に住んだ場所、晩年を過ごした場所なので、菅大臣神社→吉祥院天満宮→北政所御墳墓、と聖地巡礼をすると良いかもしれない。

 

神格化

吉祥院に移り住み、そこで亡くなった宣来子は、いつしか吉祥院に祀られていた吉祥天と習合し、宣来子自身が吉祥天女になった。

宣来子の神号は北政所吉祥女や吉祥姫命と言い、天満大自在天神の眷属となっている。

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