撫子
春が過ぎ、夏の盛りも過ぎて、最後の最後に残った暑さを煩わしく感じながら、この頃はひたすら秋の涼しさを待ち侘びている。
庭にはささやかに撫子が咲いており、そこにだけ初秋が感じられたが、吹く風に秋の色を見ることはまだ出来ない。楓もまだ青紅葉という言葉が似合う色合いだ。
彼女───有香子さんと付き合い始めてから、そろそろ1年が経つ。
最初こそ彼女が全て先導したものであったが、その次からは彼女に言われた通り僕から誘うようになった。頻度は3日に一度ほどとなかなか高い。しかしこれも始めは一旬に一度くらいだったのが徐々に間隔が狭くなっていったものだった。あまり高い頻度は良くないのではないかと渋ったけれど、結局は僕だって彼女に会うのが嬉しくて、気づけばこんなことになっている。
それでもまだ、“一線”だけは越えていない。彼女の部屋へ入ったことはなく、会うのは必ず外。従って男女としての関係はほぼ進んでおらず、清純なお付き合いである。
彼女は不満そうにしているけれど、これなら彼女を傷つけてしまうこともないし、もしも別れることになったとしても僕の痕跡と言うのは殆ど残らない。だから僕の方はこの付き合い方に満足していた。
のだが。
「忠臣さんって、全然欲がないのね」
「え?」
京を少し外れたところにある神社の社叢の中を歩いていた時、ふと有香子さんがそんなことを言った。
「欲って……?」
聞き返すと、彼女は呆れたように大きく息を吐いた。
「もう私達1年よ、1年。今時こんなに手を出して来ない殿方がいるかしら」
ぼかした表現ではあるが、鈍い僕にも流石に彼女の言わんとしていることは分かった。
「すぐにそういうことを考える人こそ、僕はどうかと思うけど」
「それはそうだけど。でも、全くその気がないというか、その気を感じられないのも心配になるのよ」
「心配?」
そうよ、と答え、彼女がぴたりと立ち止まる。
「まず訊きたいのだけど、忠臣さんは女性には興味があるのよね?本当は男性の方が好きなんてことはないわよね?」
「な、何を言い出すの……それはないよ」
「本当でしょうねぇ……?」
じっとりと下から睨まれる。
「も、もちろん。本当だよ」
答えた僕をしばし訝し気に見た後、じゃあもう一つ、と表情を変えずに彼女が口を開く。
「私、そんなに魅力、ないかしら」
「えっ」
「だってそういうことじゃない。女性には興味があるのに、私にはその気が起きないって、つまり私自身に問題があるんでしょう?……他の人なら、良いってことじゃない」
言っているうちに彼女は勢いを失い、俯いてしまった。
「違う!そういうことじゃないよ!僕は他でもない有香子さんが良いんだよ!」
とんでもない誤解をさせてしまったことに気づき、焦ってそう言うけれど、どうやら言葉を間違えたらしく、火に油を注いでしまった。
「だったらなおのことおかしいじゃない!1年も付き合って私達遠慮がちに抱き合うくらいしか進んでないのよ!?私が悪いんじゃなければ、忠臣さんによっぽど欲がないってことなの!?」
「そう……かも」
「え……?」
僕の返答に、有香子さんの涙が引っ込んだ。
「あんまり……そういう気にはならない、かな。どうしてもとか、君の気持ちを無視してまでとかは思わない。それは有香子さんに魅力がないとかじゃなくて、もちろん可愛いと思っているけど、それ以上に衝動だけで行動した結果、君を傷つけたくないからで───有香子さん?」
説明をしている間に、頬を濃い桃色に染め上げた有香子さんは、熱くなる顔を押さえて口元を緩ませていた。
「忠臣さん……今可愛いって言ってくれた」
「え、うん、だって有香子さんは可愛いでしょう?」
何をそんなに反応するんだろうとそう返せば、また心底嬉しそうに笑う。
「どうしたの?」
「だって、いつも忠臣さんそういうことは言ってくれないもの」
「そう?」
「そうです」
きっぱりと言われる。ならそういうことなのだろう。
「思ってはいるんだよ、いつも」
「じゃあ何で口に出してくれないのよ」
「そんなに一々言ってたらしつこくない……?」
「ということはしつこいほど心の中では思ってるの?」
「うーん、まぁ、有香子さんは何をしていても結局可愛いし」
また歩き始めていた有香子さんが、何かにつんのめって転びそうになるので慌てて腕を伸ばして支える。危なかった。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
そう言ってまた歩き出すが、すぐまた何かに躓く。
「大丈夫じゃないでしょう。手、繋ぐ?」
「……繋ぐ」
いつもは大抵彼女がたくさん話をして、僕は聞いているばかりなのに、何だか彼女の言葉が少なくなり、途端に静かになった。珍しい。
しばらく無言で社叢を歩く。木陰が続いているとは言え、残暑のせいで汗が滲む。しかし、手を繋ぐことには流石に慣れて来たからか手汗はそこまで酷くはない。
大人しく何も言わずに僕の隣を歩いている有香子さんは、いつもの快活な印象こそないが、これはこれで可愛いのだった。あ、今口に出すべきだったのかな。
「……忠臣さん」
「ん?」
「私のこと、可愛いと思ってるのよね」
「うん」
「……。可愛いと思って、それだけ?」
「というと?」
「どきどきしたりとか、そういうことはないの?」
顔を伏せたまま、小さな声でそう問い掛けて来る。
「……まぁ、それはあるよ」
「あるの!?」
一転、ばっと顔を上げた彼女が勢い良く聞き返すので驚いてしまう。
「う、うん……そりゃあね。でも、それはなかったことにしているというか、我慢?するようにしてるよ」
「………」
有香子さんは、形容し難い顔をしていた。強いて言えば、「意味が分からない」と顔に書いてある。
「有香子さん……?」
「どうして……どうしてなかったことにしちゃうのよ……。何でなの?私、忠臣さんの気を引きたくて色々頑張ってるのに、それじゃ何をしても意味がないってことじゃない……っ」
そう言ったかと思うと、わっと泣き出してしまった。
「あっ、えぇ!?な、泣かないで!ごめんって、僕が悪かったから!」
「忠臣さん、いっつも謝れば済むと思ってるでしょ!根本的に全然分かってないのよ!何が悪いのかちゃんと言ってくれなきゃ泣き止まない……!」
「えぇっ!?」
そう言って、人通りは少ないとは言え道の真ん中で泣き続けるので物凄く困ってしまう。どうしよう、僕は何が良くなかったんだろう。
思い出せ。有香子さんは何と言った?
『どうしてなかったことにしちゃうのよ』
どうして……。だってそれは、なかったことにしないといけないからだ。そのまま感情に任せて動いたら、僕は──僕は、彼女に何をしてしまうのだろう。
本当は、何をしたいと思っているのだろう。
「………」
隣で泣きじゃくる恋人を見遣る。顔をぐしゃぐしゃにしてもその人はやっぱり可愛くて、愛おしい。
「ごめん」
「ひゃぅっ!?」
気づくと僕は、彼女を抱きかかえて人気のない脇道へと走っていた。
ある程度のところに来ると、そっと地面に彼女を下ろす。何が何やら分からない有香子さんは、足が着いた途端によろめいた。すぐさま引き寄せて支える。
「あ、の……忠臣さん……?」
「有香子さん」
何かを訊こうとしている彼女の声を無理矢理遮った。
「君と付き合うことになった時、僕が決めたことがあるんだ。それは、有香子さんが幸せになろうとする時の妨げには絶対ならないということ。つまり、今より先に進むことは、それに反するからして来なかった」
「どういうこと……?」
「もし、一度でも一線を越えたら、もう後には戻れない。僕のことを嫌いになって、別れることになっても、それは消えずに君にずっと残ってしまう。もしかしたら、一生君に背負わせてしまうかもしれない。この先どんなことになっても、僕が君の人生の邪魔になることだけはしたくなかったんだよ」
本当は、これは言うつもりはなかった。勝手に僕が決めたことだったから。でも、その所為で有香子さんを不安にさせているなら、もう言うしかない。
君に今以上のことをしないのは、僕が君に興味がないからでも、君に魅力がないからでもないよ、と。ただただ、君が大切なんだよ、と。
有香子さんは、しばらく黙り込んでから、ぎゅうと僕に抱きついて言った。
「……じゃあ、忠臣さんは私と結婚してくれる気はないの……?」
ぐすっと啜り泣く声がする。
「……出来ることなら、そうしたいよ」
「だったら良いじゃない!私とあなたが夫婦になるなら、他の可能性なんか考えなくたって良いでしょう!?」
「……でも、先のことは、誰にも分からないから」
彼女の背に腕を回して優しく抱き締める。
「私、絶対忠臣さんの妻になるもの!今更他の人なんか好きにならないわ!絶対よ!」
「有香子さん。絶対っていうのはね、この世にはないんだよ」
僕の諭す声に、有香子さんは子供のようにそんなことないもの!と泣いて訴えた。けれどどうしても、僕はその言葉を受け入れるわけにはいかなかった。
結局僕は、単に自信がないのだ。この人を必ず幸せにすると、まだ胸を張って言えない。だから、自分の望まない結果になってしまった時のために、逃げ道を作っている卑怯な男なのだ。
そしてそんな奴は、どこかで捨てられても文句は言えないと、最初から諦めている。
分かっている。自分がこの人を守って、幸福な人生を与えられるだけの力を得れば良いのだと。けれど、それが具体的にまだ見えなくて、手が届かない。自分が今どの位置に居るのかもきちんと理解出来ていない。ただ、この状態では彼女に相応しくないと漠然と思っている。
嗚呼きっと、僕はまだ君と出会うべきではなかった。こんな僕じゃなくて、自信のある僕で、君に出会えていれば何も悩まずに済んだのに。
そう思いながら、それでも僕は、君に相応しい自分になれるまで君と離れていることも、やっぱり出来ないのだ。
「……有香子さん」
「……なに?」
「僕はね、何も欲がないわけじゃないんだよ?」
「え……」
僕を見上げてくる大きな瞳を覗き込んで言う。
「有香子さんが近くに来た時に薫る荷葉だったり、長くて綺麗な髪だったり、楽しげに色んな話をしてくれる時の笑顔も、僕を怒る時の顔も。僕は全部が愛おしくて、好きなんだ。だから、ふとした時に堪らなくなって自分でも味わったことがない衝動に駆られることもある。でも、それはさっきも言ったようになかったことにしてきた」
「………」
有香子さんは何かを言おうとして口を開きかけて、しかし何も言わずに僕の言葉の続きを待った。
「考えたんだ。何かをしてしまう前にその感情を押し込めて来たけど、それをしなかったら、本当は僕は君に何をしたいと思っているんだろう、って」
涙に濡れたままの目から視線は外さないまま、彼女の頬に手を添える。手の甲を、さらりと髪が撫でた。
「忠臣さん……」
「……多分、僕は君に、もっと触れたいんだと思う」
ごめんね、と呟いてから、僕は少し屈んで、彼女に口づけた。
微かに触れ合うくらいで、すぐに離す。
再び目線が合うと、彼女は驚いたような、呆けたような顔をしていた。
社叢を強い風が吹き抜ける。青葉が大きく揺れ、じっとりとした汗が引いていく。
遠くで、最期の蝉が鳴く声が聞こえた。
「……っ」
すると突然、有香子さんが口に両手を当てて俯いた。
拙い!
「ご、ごめん!嫌だった…よね!?本当にごめ───」
「……ちがう、違うの……違うわ、忠臣さん」
顔は上げないまま、有香子さんがふるふると首を振った。
「え……?」
「い、嫌だったわけじゃないの、本当に。嘘じゃないわ。でも……」
「でも?」
「……その、多分私、具体的に想像できてなかった…みたいで。そうよね、こういうことよね。うぅ……っ」
小さく呻き声を上げた後、また僕の胸にぴったりと抱きつく。
「ごめんなさい、恥ずかしくてあなたの顔見られないの!しばらくこうさせて!」
「え、うん……」
恥ずかしい原因の人間に抱きついているわけだけど、それは良いのかなぁ。
そう僕が首を傾げている間にも、彼女が何か呟く声が上がり続けている。見ると耳まで真っ赤になっていた。可愛いな、とまた僕は思う。
彼女に僕の痕跡を残してはいけないと思い続けて来たけれど、その前段階は考えてみると結構たくさんあるじゃないかと気づいたのがついさっき。そう思った直後に行動に移した自分もどうかと思うが、逆に今までその欲を押さえつけられていたことが不思議だ。
「………」
気を抜くとさっきの感触を、鮮明に思い出してしまう。ほんの一瞬ではあったが、温かくて柔らかかった。……もう一回、と思わず考えてしまうけれど、こんな状態の彼女にはとても頼めそうにない。
相変わらずこちらを見ない彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でる。これもまた、前段階の一つ。うっかり意識してしまう滑らかな髪の触り心地に、色々と歯止めが利かなくなりそうだった。
吹いてくる風が少しだけ冷たくなったのに気づき、僕はとんとんと軽く彼女の肩を叩いた。
「有香子さん、僕の顔は見なくて良いから、そろそろ帰ろう?」
遅くなったら大変だから、と声を掛けた。ハッと息を飲む音が聞こえる。
「ごめんなさい、私そんなに長いことこうしてた……?」
「うーん、まぁ。それなりに」
困ったように答えながら頬を掻くと、有香子さんが泣きそうな声でまたごめんなさい、と言った。
「どうしたら良いの……?まだ全然だめなの。落ち着いてくるとすぐにまた思い出してしまって……っ」
ぐりぐりと自分の額を押し付けて来る。
「というか、忠臣さんは平気なの……?もしかしてこんなこと慣れてる……!?」
「慣れてはいないよ!初めてだってば! 有香子さんがこうしてるうちは、僕も大丈夫なだけかも」
なんて言いつつ、多分有香子さんほど僕は羞恥心に身悶えてはいない。自分からした、というのもあるが、恥ずかしさよりも幸福感だとか充足感が勝っているからかもしれない。
「……何か、私だけ気にしてるみたいで、恥ずかしい」
消え入りそうな声で言う。
「僕は、気にしてくれる方が断然嬉しいな」
「え……?」
「あんなことして、全然態度が変わらなかったら、その方が悲しいよ。それに、恥ずかしくて僕にくっついたままの有香子さん、可愛いし」
ぼふんと音がしそうなほど一層赤くなった有香子さんは、忠臣さんずるい!と叫んだ。それからポカポカと僕の胸を叩く。
「ごめんて。ずるくて良いから早く帰ろうよ。ね?」
往復する手を取って繋ぐと、ぴたりと動きが止まった。
「有香子さん」
「……分かった」
有香子さんの返事が聞けたので、その手を引いて歩き出す。
「……何か、忠臣さん、いつもと違う」
「そう?」
「だって、いつもなら慌ててるのは忠臣さんの方だもの。今日は私の方が調子狂わされてる気がするわ」
「あー、そうかも。でも今日みたいな有香子さんも可愛いよ」
「っ、その“可愛い”で調子が狂うのよ!」
「有香子さんが言ったんじゃないか、どうして口に出してくれないのって。少し意識してみたんだけど、嫌だった?」
「い……嫌じゃ、ない、けど。でも、ちょっと多い……」
「ほら、だから一々口に出すとしつこいと思うって言ったのに」
「こ、こんなにとは思わなかったの!」
きっと、今振り返ればとてつもなく可愛い顔が見られるのだろう。
でも彼女はまだ僕の顔が見られないだろうし、また僕が「可愛い」と言ってしまったら物凄く怒られるに違いない。
こんなに近くにいるのに、顔を合わせられないまま、僕らは手を繋いで家路を辿った。