桃始笑
慌ただしい正月行事を終え、凍てつくような冬を越し、ようやく寒さが緩み始めると、庭の桃の花が少しずつ膨らみ始めて来た。
春の気配は着実に近づいてきているというのに、まだ指先は冷たく、吐く息も白い。冬の名残はなかなか去ってはくれない。
そして自分自身の春もまた、訪れるのに時を要していた。
部屋を出て、濡縁を歩き、庭が一番よく見渡せる階に腰を下ろす。
まだ肌寒いけれど、冷たい風で頭が冴える気がした。
私は持って来た文を懐から取り出すと、それを膝の上で開き、溜息を吐いた。
文の相手の名は、島田忠臣さんと言い、大学寮に通う学生であった。
性格は兎に角真面目で、それ故に不器用なところがあり、人付き合いが苦手。何かと自分を卑下してしまうけれど、それは彼がとても優しい人だから。
……私は今、この人に恋をしている。
初めて会ったあの日。ずっと隠して来た詩作の趣味が知られて、そしてその詩を何の先入観もなくただ「可愛らしい」と彼が言ってくれた時から。私の心に彼という存在が住み始めた。
やがてそれは、少しずつ少しずつ大きさを増して、いつの間にか彼のことを想わない日はなくなっていた。そして気が付いた。私は忠臣さんが好きなのだと。
この想いが一方的なものではなく、忠臣さんも同じ気持ちだったら良いと思う。
でも私は、それを図りかねている。
手の中の文には、少し前から私と彼がやり取りを始めた「詩」が書かれている。
私が、もっと詩の腕を上げたい、だから学生の忠臣さんに見て欲しいと頼んだのがことの発端だった。忠臣さんもまた、私の詩をもっと見たい、手元に残しておきたいと言ってくれたのが嬉しくて、思い切ってそんな理由をつけて提案した。これなら行ける、と踏んだのだ。
本当は、普通の男女のように和歌や取り留めのない話題のやり取りが出来たら良かったのだが、私と顔を合わせるだけであんなに気にしていた彼が受け入れるはずもなく、ならばと「詩」を交わす案を出した。思った通り、彼はそれならと頷いた。
最初の文は私から。彼のものを待っていたら約束ばかりできっといつまでも来ない気がしたから、話をした次の日には早々と送り届けた。
ほんの少しの抵抗として、私は詩の隣に、自分の近況を書き付けた。あくまで詩が主だけれど、こうして隅に書くくらいなら単なるおまけとしても言い訳が立つと思った。
詩の贈答という建前で、その中にちょっぴり男女のやり取りを織り交ぜる。果たして私のそんな罠は、見事に功を奏した。
丸一日経って文使いから渡されたそれの端には、私の期待通り彼の近況が同じように書かれていた。
文章院でのこと、弟さんのこと、好きな詩人のこと。何気ない彼の日常の出来事から、少しずつ彼自身を知っていくのが嬉しくて堪らなかった。
もっと彼を知りたい。私のことを知って欲しい。
もう一度顔を見たい。話がしたい。
忠臣さんと出会って、自分がこんなに欲のある人間なのだと気づかされた気がした。
しかし、彼と交わす文が、奇跡的に一度も散らず、一つの箱を満たした時、本当の欲というのはそんな可愛げのあるものではないと知る。
どうしてか、手元に届いた彼の文を広げたその日。私は大きく肩を落としていた。
文の内容に問題があったわけではなかった。
相変わらずの、尊敬する白詩を取り入れた平坦で、けれど彼の性格を映したようなどこか可笑しくて美しい詩。そしてその横に書かれた、庭の梅が咲いたという何てことはない話。
何一つそれまでと文の中身は変わっていないのに、私はそれに、腹立たしさを覚えた。
否。腹立たしく思ったのは、“文の中身がそれまでと何一つ変わらないこと”だった。
一月、二月とこうして毎日のように文を交わしても、私と彼の距離がずっと変わっていないのである。
届く文をどうやって読んでも、そこに私への気持ちが透けて見えるようなことが何もない。自分の読解力のせいではないはずだ。
……端的に言って、未だに分からない。忠臣さんの気持ちが。
どこかで、私は期待していたのだろう。これだけ男女が文を交わせば、いくら詩の贈答だと言い訳をしても、そろそろ彼が動いてくれるのでは、自分の想いを告げてくれるのでは、と。
なのにいつまで経っても何も動かない。何も分からない。気持ちを察せるような言葉が何もない。
気づいた時には、届いたばかりの彼からの文を皴が出来るまで握り締め、私は一人泣いていた。
私は私で、忠臣さんの気を引こうと、詩や近況の中にそういう言葉を毎回ちょっぴり織り交ぜて来た。それは直截的には書いていないけれど、少し考えれば察せる程度にしてきたつもりだ。
これで気づかないとすれば、彼は余程鈍いと言える。それとも、単に脈がないのか。
「……そんなこと、ない……と、思う」
だって彼の文には女性の陰もないし、誰かもう意中の人がいたならそもそも私の誘いを断るはずだし、私と話した時の彼の反応は、失礼だけれど女性に慣れているという感じではなかった。まぁ、私だって恋愛慣れしているわけではないからそれだけでは何とも言えないのだが。
でも。それでも。
私は彼が好きだし、彼と結ばれたい。他の誰にも奪られたくない。それだけは確か。
「………」
冷たい風が庭を駆け抜ける。私は膝を抱え直して、もう一度手の文に目を落とす。
ねぇ忠臣さん。私のこの気持ちは、本当に一方通行なのかしら。
違うわよね。きっと違うと、信じたい。
だけどそれが合っているのか、間違っているのか、私には分からないの。
分からないけれど、希望を信じているの。
でもね、これじゃあただの思い込みになってしまうから。
だから、私はあなたの気持ちをどうしても確かめたい。
私の信じている通りなのか、確かめたい。
「───あ」
そこで私は気づいた。彼の気持ちを確かめる方法を何か考えれば良いのだ。
そう、最初に私から届けた文のように、きっと優しい彼は自分からは動かない。それを島田忠臣という人に期待した自分が間違っていた。
動かなきゃ、私から。
忠臣さんのことだ。色々考えた結果、結局動かずに、この文が途絶えたと同時に関係も断絶してしまう気がする。それをどうにか阻止しないと。このままじゃだめだ。
顔を上げて、空を睨み、一人思案を巡らせる。
例えば私から文に彼への想いを綴ったとして、それに素直に返してくれるとは思えない。あの硬い守りを解くには……うん、うっかりだ。これが最も適している。
期せずして態度に、口に、顔に出してしまうならその心も確かめられると思う。考えさせる時を与えてはだめだ。
であれば取る手段は一つ。もう一度直接会えば良い。
そして会おうとしてもあの人はやたら慎重だから、単に誘ったところで多分断る。でもそれを今まで私は突破してきている。
一度目は他に誰もいない状況。二度目は急に声をかけた状況。
こういうどうにも出来ない状況だったら彼も会わざるを得ないという実績がある。
ここは義理堅い彼の性格を利用させてもらう。最早勝手にこっちが待っていれば、待たすまいと思って来るはず。それに女性を一人で放置することが出来ないはずだ。
「……なら時間を調節して会う約束を取り付ければいいわね。文を開けたら約束の当日っていうのなら拒否の文も送れないし。よしよし」
場所は…いきなり邸へ来いというのも酷だし、邸なら例え彼が来なくても私が困る状況にはならないと見て最悪来ない可能性もある。ここは外だ。しかもちょっと治安が悪そうなところで待っていることにしよう。心配性なところがあるから慌てて走ってくる可能性も上がる。
そして見事に会えたら、鎌をかける。さも忠臣さんの気持ちなんて分かってましたとばかりに言ってみる。「私のこと好きなんでしょう?」って。
もしも。もしも外れていたらこの上なく恥ずかしいけれど。でも、もうそれしかない。このままの膠着状態じゃ嫌なんだもの。どっちにしても勝負に出るしかない。
私からの言葉への反応で、多分全部はっきりするから。そしたら私も言ってやるの。
あなたのことが大好きだ、って。