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​桜枝

桜を見ると、母と父を思い出す。

「ははうえー」
「おっと」
あれは二つの頃か。仲平がまだ生まれる前。庭で衣を干す母の元に駆け寄ると、いつものように笑って母は私を抱き止めた。
「宣来子~。どうしたの~?お腹が空いたのかしら」
「あれ」
私は庭の木を指さした。大きな木で、薄紅の花が開くその木が、私にはどうにも気になった。
「あの木?」
こくんと頷く。
「あれはなぁに」
「あれはね、桜よ」
「さくら」
「そう。綺麗でしょう」
「うん」
母は私を抱き上げ、桜の側に寄る。
「梅は唐から来たけれど、桜は元々日本にあったのですって。でも、私も島田へ来てから見るようになったのよ。実家にはなかったし。父上はね、この桜が好きなのですって」
「ちちうえは、さくらがすきなの?」
「ええ。毎年散っては嫌だと言ってるわ。それは無理なのだけどねぇ」
「ちる?」
「お花がね、風に吹かれて飛んでいってしまうの。桜は長くは咲いていないのよ。雨や風ですぐに散ってしまう。だから本当に今だけなの」
その日も風はあって、桜が舞い踊っていた。もう少しでこの花と別れなければならないのが、幼い私にも何となく分かった。
「ははうえ、おはなおちてる」
「あら」
そこには、まだ花のついた枝が落ちていた。風のいたずらで枝ごと落ちてしまったようだった。
「かわいそう。おはないたいいたい?」
「そうね。 お花がかわいそうだから、お家に入れてあげましょうか」
母は私を降ろすと、枝を拾い、私の手を引いて邸へと戻った。少し待っててと言われ、枝を持って簀子に座っていると、やがて母が壺を抱えて戻ってきた。
「これをね、こうするの」
そう言って私の手から枝を持ち上げ、壺に挿す。桜は、木が立ち上がったことでまた元気になったように見えた。
「もういたくない?」
「うん、きっともう大丈夫ね」
母が笑い、私も嬉しくなって笑った。

そのうちに父が帰宅し、ただいまという声が聞こえた。すぐに駆け寄り、桜の一輪挿しの元へ引っ張っていく。
「どうしたんだい宣来子……?」
「ちちうえ、これみて!」
早く父にも見て欲しくて指さすと、桜を見た父から感嘆の声が漏れた。
「わぁ……これ、どうしたの?」
「おはなおちてたから、ははうえがいれたの」
「ここのところ風があったでしょう。枝ごと落ちてしまったみたいで。宣来子が見つけてくれたのよ」
「うん」
自慢気に答えれば、父は笑って私の頭を撫でた。
「宣来子も、桜が好きかい?」
「はい」
「そうか、気に入ってくれて嬉しいな」
そう言って桜を見つめる父の横顔は、嬉しそうにも、どこか寂しそうにも見えた。それは恐らく、そう遠くないうちにやって来るこの花との別れを思う心から去来するものだったのだろう。
「あ、いけない。洗濯を干している途中だったわ。 宣来子、父上と遊んでもらいなさいね」
「うん」
ぱたぱたと戻っていく母を見送り、父を見上げれば、父も同じく私を見つめていた。
「ちちうえ、あそんで」
「宣来子は、何して遊びたい?」
「おはなのおはなし、いっぱいききたい」
「いいよ、分かった」
父は私を抱き上げると、そのまま庭を歩き始めた。父は背が高く、抱き上げられた時に見える景色が母とは全然違って面白かった。
「宣来子は、どれが好きかな」
私を下ろしながらその場に座り込み、父がそう訊いた。私は目の前の色とりどりの花の中から、一番気になった花を指差した。
「これ」
「それは菜の花だね」
「なのはな」
「そう。かわいいね」
「きいろいおはな」
「うん」
風に微かに揺れる菜の花は、ちょうど私と同じくらいの背丈だった。
控えめに花を触っていると、そこへ白い蝶が飛んできた。
「ちょうちょ」
「あ、本当だ。綺麗だねぇ」
「ちょうちょも、おはなすき?」
「蝶々はね、お花の蜜を吸いに来たんだと思うよ」
「みつ?」
「お花の中に甘い汁が入っているんだ。虫さんはみんな大好きだよ」
「のぶきこもたべたい」
「え、うーん……宣来子が食べても美味しくないと思うよ」
「どうして?」
「どうしてかぁ……宣来子は虫さんじゃないからかなぁ」

「───ふふ」
「どうした。急に笑ったりして」
ふと思い起こされたその記憶に一人笑いを零すと、隣の夫が怪訝な顔をした。
「いえ、少し昔のことを思い出して」
「昔のこと……?」
「ええ、私が二つの頃の話ですが」
「おい、どれだけ昔だ。大体よく覚えているな」
「すっかり忘れていたんですけどね、桜を見ていたら思い出しました」
「ああ……島田にも桜があったなぁ」
「ええ、父が好きなんです」
「知っている」
ず……と夫が茶を啜った。
「惜櫻花は、かなり過激な詩だと思ったな。春風に賄賂を渡してまで散らしたくないとか、啄もうとする鳥を籠に閉じ込めようとか、折ろうとする人間を鎖に繋いでそれを阻止しようとか。普段はあまりそうと感じないが、忠臣は驚くような表現をすることがある」
「道真は桜より梅が好きですよね。 この桜は前からここに?」
風に運ばれて床板へ舞い降りた花弁を手に取りつつ問い掛ける。
「ん……ああ。まぁ物心ついた時からあったな。私は忠臣ほど詩には読まないが」
「それは何故」
「詩の大元の唐にはそもそも桜はなかろうが。だからまぁ、桜を詠むとすれば歌だろうな。無論桜を詩に詠むことが間違いだとも言わないが」
「では、気が向いた時に桜で何か詠んでくださいな」
「……気が向いたらな」
そうぶっきらぼうに言って、夫はまた茶を啜った。
少し強い風に桜の花が浚われて行く様を、私達は飽きることなく眺めていた。

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