梅の葉に小雨の降る
寒さと遠くに聞こえる雨音で、未だ残る眠気の中、不本意に目が覚めた。
一度気になってしまうと水音が耳にやたらと響いて眠れない。そうかと言って衾から抜け出すには部屋が寒い。しばし天井の板目を睨み、それから隣の夫を見遣る。
夫は腹が立つほど熟睡していた。
悔しいので軽く蹴りを入れてみる。
「うっ……うぅ……」
変な唸り声を上げた後また眠りに落ちたのを見て、思わず笑ってしまう。眉間に皺を寄せたまま寝ているのがさらに面白い。しばらくそんな夫の様子を眺めていると、そのうちに元の穏やかな寝顔へと戻った。
再び天井に目を遣る。そう言えば今日は夫が休みだ。掃除もしようと思っていたが、変な場所に居座って邪魔になるかもしれなかった。まぁその時はその時だ。
息を吐き、もう一度衾を頭から被って少し。
やはり起きよう。
観念して起き上がる。夫も起こそうかと思ったが、今日はたまの旬暇なのだし、もう少しこのままにしておいてあげることする。
支度を済ませてそっと部屋を出ると、途端に大きくなる雨音。庭の梅を濡らして降りしきる雨を見て、私は呟いていた。
「洗濯………」
絶望的な心持ちだった。
今日はとにかく洗濯することを目標に、昨日大量に衣を解いておいたのだ。今日はそれを干して、明日また縫い直して香を焚きしめ、明後日の釈奠に間に合わせる予定だったのに、全て台無しだ。
「………」
が、こればかりは仕方がない。今回の釈奠は我慢してもらおう。半年後には繕い直しでなく新調することにして、多少文句は出るだろうがそれで納得してもらうことしよう。いや納得させるしかない。
朝目覚めた時には外の雨音と洗濯が今一つ繋がらなかったのが、部屋を出て庭の様子を見たことでようやく一つの事柄として認識された。嗚呼、もっと早く気づいていれば二度寝も出来たというのに。
溜息を吐き、それから気持ちを切り替えることにする。とりあえず今のうちに書斎の方を片してしまおう。夫が寝ている今が好機だ。
そうして一歩踏み出した時。
「のぶきこ……?」
「な……」
声に振り向けば、眠たげに目を擦る夫が立っていた。
「お、起きたのですか……」
「ああ、雨音が煩くてな。あと、揺すられたような感覚がした」
そう言って大きな欠伸をする。
私は、夫には見えないように苦虫を噛み潰したような顔をした。さっき入れた蹴りの所為だ。いくら熟睡する夫に腹が立ったからと、あんなことをすべきではなかった。また寝入ったと思っていたのに、あれがまさか起こす原因になろうとは。
「く……」
「何だ?」
「……いいえ、何でもありません。 では、着替えますか。それとも今日は旬暇ですし、もう少しゆっくりなさいます?」
出来ればゆっくりなさって欲しい。
「いや起きる。せっかく早く目が覚めたことだし、茶を淹れてくれ」
「……分かりました」
手を叩いて家人を呼び、夫の着替えを頼む。一方の私は同じく着替えさせようとしてくる篠山を制して自分で簡単なものに着替えてから、厨へと向かった。茶の支度をするのに袿袴なんて着ていられない。今日は家の仕事が山積みなのだ。背子と裳で充分である。
余計な仕事が増えた……と思いながら、棚から磚茶を取り出して火鉢で炙り、薬研で細かくする。甕から掬った水を火にかけ、しばし待ち、そこに塩を一つまみ。
これで再度沸騰するまで待つわけだが、塩で沸点が下がるため、また沸いてくるまで時間がかかる。そうかと言って火から目を離せないためにここを動けないこの時間がいつももどかしい。
「あ」
良いことを思い出した。
私は周りをキョロキョロと見渡し、誰もいないことを確認すると、同じ棚から鉢を取り出した。布巾を取り去れば、中には唐菓子が入っている。昨日少し残った分を避けておいたものだ。
何も入れずに動いているのだ。少しくらい小腹を満たしても良いだろう。
摘まんだ菓子を口に入れようとした、その時だった。
「お母さまー」
「ん!?」
裳を引く感覚に思わず肩が跳ねた。見下ろすと、そこには衍子がいた。
「の、衍子……」
「あ、お母さま何かおいしいもの食べてる!私にもください!」
「……はい。手を出して」
「わぁい」
私から菓子を受け取った衍子が嬉しそうにそれを口に入れる。
「あまーい」
「そう、それは良かったですね」
いつもはこんなに早く起きていないのに、余程菓子となると子供というのは目がないのだろうか。さっきちゃんと誰もいないのを確認したはずなのだが。
想定外の来客で取り分の少なくなった菓子を口に入れる。ほのかな甘みがした。
湯がぽこぽこと沸いてきたので、少しその湯を取り分けておき、鍋の方に中を掻き混ぜつつ茶を入れる。そのうちに再びぐらぐらと沸いてきたところへ取り分けた湯を入れて沸騰を止める。これでやっと完成だ。火から鍋を下ろし、椀へ茶を注ぎ入れる。深く芳ばしい香りが厨を満たす。
「お母さま、私もそれ飲みたい」
「だーめ。衍子は水にしなさい」
「えー。お父さまばかりずるい」
「お父さまは偉いから水ではなく茶を飲めるんですよ」
適当な理論をでっち上げて、衍子には水を飲ませる。飲み終わった途端、娘は走ってどこかへ行ってしまった。元気なものだ。
椀と、果子が入った鉢を載せた折敷を持ち、夫のいる部屋へと向かう。
濡れ縁を歩き出してしばらく。私は立ち止まった。
「……やられた」
私の見ていない隙に、恐らく夫は書斎へ行ったはずだ。要するに、今日の予定である「書斎の掃除」が出来なくなったわけだ。
何だか今日は尽く立てておいた計画が頓挫している気がする。早起きはしたものの、やりたいことが今のところ何一つ出来ていない。このまま一日が無駄に終わってしまうのではないかという不安を振り払い、私は書斎の前まで来て夫に呼び掛けた。
「道真、茶を淹れましたよ」
「ああ」
……やはり書斎にいた。まだ紅梅にいるのではという希望はあっさりと潰えた。
椀と鉢を夫の横に置きながら、あまり注意が向かないように淡々と告げる。
「半年後の釈奠の衣ですが、どんな襲に致します?」
「んー。次は冬か。松の襲か紅梅の匂か……お前に任せる」
「分かりました」
私はそそくさと書斎を後にした。明後日のことにはこれで気は向くまい。策は成った、と拳を握り締めていると。
「おい、それで明後日はどうするんだ」
と、夫が顔を出して訊ねて来た。ああ、背の君の頭が冴え過ぎるというのも考えものだ。
「申し訳ありません。新調はどうにも難しかったので、今日洗濯をする予定だったのですが、ご覧の通り生憎の雨でして……何も出来ません」
いっそ悪びれもせずに言い切ってしまえば、反対に夫は雨空を見上げ、
「……まぁ、なぁ。そうだな、これは致し方ない……な」
と言った。良かった、変に駄々を捏ねられずに済んだ。
「その代わりに次の釈奠は道真の好きな襲で仕立てますから」
「うん」
頷いて、また書斎に引っ込んだ。……私はそこの片づけをしたいのだが。
嘆いたところで夫はそう簡単に出ては行かないのだ、私は私で別のことをしよう。そう自分に言い聞かせ、紅梅へ戻った。
女房が朝餉を持って来るまでまだ時がある。今日は雨の割には体が動くから、衍子の衣を直してしまうことにする。
子の成長というのは目まぐるしいもので、昨日着られていたものが今日には小さくなっていたりする。元々が大きく作ったものをあちこち詰めているだけなので糸を解いて縫い直せばまた着られるわけだが、それだって手間でないとは言えない。しかしいくら姫とは言ってもよく動く子なので、少しこの作業が滞るとうっかり裂いてしまったりする。そうなってから直す手間を思えば、先手先手で処理しておいた方が余程楽である。
「……はぁ」
体の調子は良いのに、何だか今日は目が疲れる。最近書物を読み耽ったりはしていないのに。
脇息を引き寄せて凭れ掛かる。少し疲れた。雨の所為だろうか。
そのままうとうとしていたら、「奥方様」と声を掛けられた。
「朝餉をお持ちしたのですが……お加減が悪うございますか?」
「いいえ、大丈夫。少し疲れただけです。ありがとう」
そう言って粥を受け取ろうとした瞬間、せり上がるものを感じて私は口を押えた。
「ごめんなさい……それ、今すぐ遠くへ持って行ってちょうだい」
「え……」
「早く」
「は、はい!」
女房の松瀬が慌てた様子で廊下へ出てから、こちらへ問い掛けた。
「奥方様、大事ありませんか?薬師を呼びましょうかっ?」
「今は良いです。……あとで恐らくまた頼みますから、誰か人を寄越しておいて。それと、粥はあなたが食べなさい」
「わ、分かりました。ありがとうございます!」
粥を持った松瀬が小走りに遠ざかって行く。あの子は食べるのが好きだから、丁度良い礼にはなっただろう。なかなか出来立ての粥というのも食べる機会はないだろうから。
「………」
そんなことよりも、これは困ったことになった。
この感覚には覚えがある。初めてではないから確信も持てる。しかし、まぁ、あれから4年も経っていたし、もうこんなことはないのだろうと決め込んでいたというのに。
出来る時は、出来るらしい。
言われてみれば心当たりはいくつかある。何より月の障りが近頃なかった。あまり気に留めていなかったが、まさか本当にそうだとは。まさか、あれが───。
「……ふぅ」
朝から何を考えているのか。いけないいけない。とにかくそうとなればすべきことは他にたくさんある。二月前のことを考えている場合ではない。
頭を振って、簀子に控える家人へ薬師を呼ぶよう指示を出した。
薬師の「これは間違いありませんね」という言葉を、私は妙に無感動に聞いていた。やはり“初めて”に比べると感動というのは薄れていくものなのだろうか。それとも単に自分が薄情な人間なのだろうか。
最初とは違い、もう頭の中はこれから先の数ヶ月のことを考えている。衍子のことをどうしよう。前と違って頼れる母上や父上が近くにいない。それでも私が頼めば京まで来てくれるだろうか。いいや、筑紫はあまりに遠い。叔父上は。仲平は。仲方は。
───道真は、何と言うだろう。
じわりと視界が滲むのが分かった。
何故か、衍子の時と違って喜びよりも不安が勝っていた。頼れる人が近くにいないこと、今度は気に掛けていなければならない存在が他にもいること。そんな違いが、私の心を騒めかせた。
衍子が生まれるまでは、私は子供だった。衍子が生まれたから、私は親になった。親になったら、もう一人前の大人で、誰にも頼ることは許されない。そんな気がした。この不安は、そこから流れ出ているのだろう。
やがて薬師は帰って行き、部屋には一人になった。外はまだ雨が降り続いている。雨音がさっきよりもやけに大きく耳を打つのは、単に雨脚が強まったからか、それとも自分の心の持ち様か。
褥に横たわったまま、天井を見つめる。室内は薄暗く、はっきりと板目を見ることは出来ない。
「……はぁ」
どうやらもう一人分の命が息づいているらしい、その少し上。そこが切なげに空腹を訴えるのを感じて私は溜息を吐いた。吐き気はするのにお腹は空く。案外これが結構辛かったりする。
寝転んで雨に濡れる梅の葉を眺めていると、生理的なものとも感情的なものとも区別がつかない涙が流れ落ちた。何だか、何もかもどうでも良い。
せっかく新しい命を授かったというのに、投げ槍になってしまう自分は心底酷い人間だ。どうしてこんな気持ちになるのだろう。誰か助けて欲しい。……誰か───。
「おい宣来子」
声のする方を見遣れば、夫が御簾を上げて部屋へ入ってくるところだった。
いつもなら、何ですかと返事をして夫の望むものをあれこれ考えつつ近くへ行くのだが、今はそれすらも億劫だった。
流石に訝しんだ夫が、「宣来子。いないのか?」ともう一度声を掛けながらこちらへ歩いてくる。ややあって褥に臥した私に気づき、驚いた声を上げた。
「全く、いるなら返事をしないか。 どうした、昼間から横になって。調子が悪いのか?」
夫が傍らに座り込み、私の顔を覗く。
そこで、何でもないと言えば良かったのに。そう言えば、それで済んだのに。
「……すみません。ごめんなさい……っ」
道真の顔を見たら、急に涙が溢れてしまい、気づくと私は夫に縋り付いて泣いていた。
「……それで?一体全体どうしたと言うんだ」
体勢は変えぬまま、私の背を摩りつつ夫は眉根を寄せて訊いた。
普段のこの人と私はまさに淡白といったふうであり、前にこんなふうに寄り添ったのはそれこそ“あの”二月前まで遡るほどだった。
心地良さに微睡ながら、私は呟くように答える。
「子が、出来たようなのです」
その小さな声に、夫が息を飲むのがはっきりと分かった。
「……そうか。そう、か」
言葉自体を咀嚼するようにしてそう繰り返す。それから摩る手が不意に止まった。
「あの日は、何というか、そんなことは考えていなかったから、まさか、という感じだ」
「はい……私ももう、子を成せぬ身なのだろうと思っていましたから、ここで子を授かったことについ動揺してしまって」
「だから泣いていたのか」
「……ええ」
道真に身を寄せると、とんとんと優しく背を叩かれた。
いつも子供のように振る舞う夫に、親よろしく接する私だが、こういう時だけ、道真が私より五つも歳が上であることを思い出す。
「父上も母上も近くにおりませんし、衍子も見ていなければなりません。自分がこれからの十月でどうなっていくか知っているだけに、前と違うことが不安なのです」
ついさっきまで、整理がつかずぐちゃぐちゃだった感情は、夫に話しながら言葉にすることで、存外単純な悩みだったのだと気づいた。不思議なものだ。
親に決められた、余り者同士をくっつけただけのこの関係に、恋や愛なんて芽生えることがあるのだろうかと最初は思っていた。
一緒に暮らし始めて、頑固で神経質で偏屈なこの人と、この先死ぬまで添い遂げることなんて出来るのだろうかと思った。
それでも今、私達は恐らく、紛うことなき“夫婦”なのだと、そう感じる。
そっと顔を上げて、黙って私の背を叩く夫に声を掛ける。
「すみません、変な弱音を吐いたりして。もう大丈夫です」
「え……」
「……きっと、何とかなります。根拠や自信はありませんが、やってみようという気になりましたから」
夫は一、二度目を瞬かせた後、首を振った。
「いいや。今もお前に家のことは全て任せ切りだ。家人の仕事まで請け負っているお前がいよいよ動けなくなった時、衍子のことも、家のことも回らなくなるだろう。そうなってしまう前に、家人をもう少し雇うことや、義母上に来ていただくことも考えた方が良い」
きっぱりと言った夫に、私は思わず面食らってしまう。二の句が継げないでいるうちに、道真は続きを口にした。
「とにかく、家人達に知らせてもう少しお前が楽出来るようにせねばならん。一通り出来る所為でお前は何でも自分でやろうとするからな。それから、すぐ忠臣に文を書こう。義母上に手伝いに来てもらうよう言わねば」
「………」
衍子の時、道真がここまでしてくれた記憶はなかった。それは経験が足りなかった所為もあるだろうが、お互いにまだ夫婦として日が浅かったのもあると思う。きっと私達が連れ添った年月の分、相手への思いやりというのが育まれたのだろう。
「ありがとう、ございます」
「うん」
「……また、良き名を考えてくださいね」
「ああ」
「無事生まれたら、また粥を作ってください」
「分かった」
少しの肌寒さを、互いの体温を分け合って凌ぐ。
降り続く雨は、気づけば柔らかく細いものへと変わっていた。