洛外で会いましょう
法要を行ったその日は決まって吉祥院に泊まり、翌朝自邸へと戻るのが常だった。
だから仏事を終えると必ず暇な時間が訪れる。そういう時には、あまり来ることのない物珍しさから、洛外を何をするでもなく歩くのだった。
五条の邸と違い、どの邸も小さく、この辺の家は家格が下がるのが見て分かる。道もあまり整備されておらず、しかしその開拓され切っていない自然を残した風景が、歩いて回るのには丁度良かった。
緩やかな川の畔を歩いていくと、そこに一人腰を下ろしている人影が見えた。近づいていくと年端も行かない女子である。だがよく見ると、手に何か書物を携え、それを読んでいた。外で読書をしている……?
「……あの、何か」
「え」
どうやら無意識に近づき過ぎていたらしい。妙な目線に気づき、訝し気な声を上げる。当然と言えば当然だ。これでは自分はただの不審者である。
「あ……その、失礼。 外で書を読んでいるのが、少し珍しいな、と」
「そうですか」
これ以上会話を続ける気はないと、彼女はまた書に目を戻した。歳の割に随分と大人びたところがある。しかし、こんなところで書物を広げる女児が、一体何を読んでいるのか。そもそも字が読めるということ自体が信じ難い部分もあり、私は「そのまま通り過ぎる」という選択肢を取り落してしまった。好奇心が勝ってしまったのだ。
「何を読んでいるんだ?」
「………」
面倒臭そうに再び顔を上げた彼女の眉間には、はっきりと皴が刻まれていた。しばらく押し黙り、けれど諦めずに私がじっと目を合わせていると、そのうちに小さく溜息を吐いてから答えた。
「ただの老子の道徳経ですけれど」
「ただの……?」
只事ではなかった。精々仮名だろうと思ったが、何と真名、しかも漢書。そんなもの、この歳の女子が本当に読めるのか……?
「そんなもの読めるはずはないとお疑いのようですが、決めつけはやめていただきたいですね」
言って書を閉じると、彼女は立ち上がった。
「失礼いたします。 今弟達と隠れ遊びをしている最中ですので」
「は? 隠れ遊び……?」
懐に書を仕舞ってから、だっと駆け出していく。存外足が速いのに驚いた。
あっという間に豆粒大になってしまった彼女を呆然と眺めながら、何とか頭の整理を試みる。
自分の邸の近くならともかく、こんな、言葉は悪いが身分の低い者達が住む場所に、一人漢籍を読む十かそこらの女児がいて、しかも本来の目的は読書ではなくきょうだいとの遊び?じゃあ遊びの合間に書を読んで時を潰していたというのか?訳が分からない。
その場に立ち尽くして首を捻っていると、遠くから叫び声が上がった。耳を澄ませてみると「早過ぎですよ姉上ーーっ!」などと言っている。どうやらさっきの彼女が隠れていた弟を見つけたらしい。
それからまた少し経つと、同じようにまた一人と見つかったのが分かった。やがて三人がこちらへ歩いてくる。
彼女は私の姿を認めるなり「何でまだいるんだ」と顔に大きく書いてあるのが見えたが、あとの二人はぱっと表情を明るくした。
「道真兄様!?」
「兄上!」
姉に見つかってとぼとぼと歩いていた男児二人が、一転嬉しそうにこちらへ駆けて来た。
「お前達、仲平と仲方じゃないか!」
「はい! 兄様はどうしてこんなところまで?」
「私は先祖の供養にそこの吉祥院へ来たんだが……お前達は?」
「我らの邸はこの近くです」
「そうか。そう言えばそうだったな」
無邪気な二人の男児は、師である島田忠臣の長男と次男、仲平と仲方だった。
とすると……。
「あれは、お前達の姉君か?」
「ええ。 兄上は初めてでしたっけ」
「ああ」
そう私が答えた時、彼女もまた目の前までやって来ていた。どうやら向こうも私のことが分かったらしい。
「……あの、もしや菅家の道真様ですか?」
「はい。 そちらは、忠臣の娘御の……?」
「お初にお目にかかります。 宣来子と申します」
「……なるほど」
忠臣の娘ならば、全て納得が行く。老子くらい“ただの”呼ばわりしてもおかしくはない。……ないか?
「失礼いたしました。まさか父の師のご子息でいらっしゃったとは知らず。非礼をお詫びいたします」
「いや、私も不躾に声を掛けたので、失礼いたしました」
互いに頭を下げてから、気になっていたことを問う。
「隠れ遊びの間に、漢籍を読んでいたのですか」
「ええ。弟達は、私がすぐ見つけてしまうと言って隠れる時間を長くしてくれとせがむんです。そんなことをしたとて無駄なのですが」
「何故姉上は我らをすぐ見つけてしまうのですか?きちんと隠れているはずなのにおかしいです」
「言っておきますけど私が不正をしているのではないですからね。 お前達が音を立てるからですよ。バタバタガサガサ、こんなのどこにいるかすぐ分かるでしょう」
宣来子殿は呆れたように息を吐いた。
「さ、遊びは終わりにして帰って勉強しますよ」
「えぇー!まだ少ししか遊んでませんよ!」
「隠れ遊びをしたら勉強する約束だったでしょう。言い訳は聞きません」
嫌がる仲方の首根っこを掴んだ宣来子殿が、無情にもずるずると引き摺って行く。その隣を、仲平も不服そうに付いて行く。
「では道真様。失礼いたします」
「え……ああ。それでは」
ぺこりと礼をした宣来子殿は、弟二人を引き連れて島田の邸の方へと去っていった。
この時はまだ、私も彼女も、数年後に夫婦になるなんて夢にも思ってはいなかった。