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​膠漆

長谷雄は、北堂でいつも独りだった。東の人間達はあらぬ噂を立てて近づかず、遠くから心配そうに見つめる良香も門下の学生達が長谷雄に近づけないようあることないこと吹き込んで結局遠ざけてしまい声をかけられないでいた。
書物をまとめて立ち上がろうとしたところで、楽し気な会話が耳に入る。
西の人間達だった。中心には道真がいる。
(あれは、確か今民部省にいる菅原道真殿……)
いけないことだとは思いつつ耳を澄ませてみると、驚くことに自分と生まれ年が同じであることが分かる。
(何と。私と道真殿は同い年なのか。なのに、私は未だ文章生試にすら及第出来ていない。それどころか師も失い、元々学問の家でもない我が家には後ろ盾もない。やはり学で身を立てるのは無理なのか……)
自分との埋まらない差を痛感し、溜息交じりに席を立つ。


それからしばらくして、長谷雄はやっと文章生に補された。時に三十二歳。祖父や父の大きな期待を何とか裏切らずに済んだと、肩の荷が下りた心地だった。
ここでやめても良かった。文章生になれただけでも充分ではあった。しかし、あともう一歩。もしも得業生になれたなら、その先に約束された「学者としての道」が拓かれる。家にその礎を築いてこそ、大願成就と言えるはずだ。
もうこの都堂院にいることすら辛い気持ちを抑え込み、長谷雄は菅家廊下の門を叩いた。


時の文章博士、菅原道真は、いざ師としてみると偏奇な人だった。
かつての師である良香とは違って直接指導をしたりはしないし、廊下へ行っても自室に籠りきりだった。門下生が多い故、一人一人見ることは難しいのだろうと思っていたが、それにしても誰かと語らったりしているのを見たことがない。それどころか、他の学生曰く道真に教えを請おうと書斎に行くと、叱られた者さえいたのだという。それはまぁその学生が何か仕出かしたのだろうと思ったが、周囲を見るにつけ柔和な雰囲気の師とは言えず、いつも廊下はピリピリとした空気が張り詰めていた。
そして良香の元では頻繁に行われていた宴もとんとなかった。あっても仲の良い学生同士が輪を作るくらいのもので、そこに師は現れなかった。
長谷雄は、本当にここにいて秀才になれる日が来るのだろうかと不安な心持ちになった。
(しかし、私と変わらぬ歳でこんなに大勢の学生を見るというのも大変なことだ。何より今師匠は式部少輔と文章博士を兼ねている。お忙しい中廊下の運営もなんてとんでもないことだろう)
何となく事情も分かる気がして、長谷雄は独学を続けた。
先の師とは、師の前で詩を詠み、評価をいただいたことが全ての発端だったわけで、同じ状況にならないのならばそれはそれで気が楽だった。もしも同じ状況に置かれたとしても悪目立ちをしないよう気を付けるだけのこと。同じ轍は踏まない。私はここで踏ん張るのだ。長谷雄はそう心に決めて精進した。東でのことを知っている者から小さな誹りを受けても、聞こえていない振りをした。


翌年。大極殿落成の折に触れて開かれた宴で、長谷雄はある詩を作る。
するとそれに道真が反応し、激賞した。
(まさか、師匠が私の詩を気に入ってくださるとは)
あの時のことを思い出し、嫌な予感がしたが、良香の時のようにはならなかった。
それはその宴の帰り道のことだ。
酒も入って何だか少し浮かれながら家路を歩いていた長谷雄の肩に、ぽんと掌が乗った。
「先刻の詩、実に見事だった!」
「え……あ、菅師匠!」
「師匠などと、まるで師弟のような物言いをなさる」
「いや……その、私は廊下で学んでいる者……なのですが。菅師匠はご存じないでしょうか」
「なに。 いや、申し訳ない。あまり廊下の者のことは覚えていなくて」
弟子としては少し衝撃を覚えたものの、気を取り直して向き直る。
「では改めて。 昨年より廊下にお世話になっている、紀長谷雄と申します。今はまだ文章生ですが、得業生試及第を目指して学ばせていただいています」
「紀家…というと、東か?」
「ええ」
その純粋な問いかけは、先の一件のことなど一つも思い当たっていないようだった。
自分が居辛くなるほどにはそれなりに広まった話だと思っていただけに、長谷雄は拍子抜けしてしまった。
けれど反対に、知らないなら知らないでそれは有難いことだとも思った。
「東とは珍しい。いないこともないが殆どが西の人間だからな。まぁ東だの西だの高々寄宿舎の都合の話だが、いつの間にか学閥にまでなってしまって全く煩わしいことこの上ない」
つまらん小競り合いをして足を引っ張り合っているから何も変わらんのだ、と道真はぶつくさと愚痴を吐き出した。
それを聞いた長谷雄は、その明け透けな物言いに“光”を見た気がした。
この人には、大局が見えている。この人に付いて行けば、私は純粋に学べる。
ようやく勉学や詩の面白さに目覚め始めた長谷雄には、学で身を立てなければという思いの一方で、確かな師の元で心行くまで学びたいという気持ちがあった。それを道真ならば叶えてくれるのではないかと期待したのである。
「それはさておき、門下ならば話が早い。これからうちで是非語らおうじゃないか」
「よ、よろしいのですか……?有難いですが、師匠はお忙しいのでは」
「ん、ああ。忙しいと言えばそうだが、もう今日は宿直もないし、夜は他に予定もない。 長谷雄殿は?」
「どっ、殿なんてよしてください! 私も取り立てて用事はありません」
「なら参ろう!」
肩を抱かれるようにして、上機嫌の道真に連れられ、長谷雄は菅家へ赴くことになった。


「おーい、宣来子ー!客人を連れて来たぞー!」
邸へ上がるなり、道真が中門廊の南端へ向かって叫ぶ。
(あちらには師匠の書斎があるのではなかったか……?)
長谷雄が、何故そちらへ声を掛けるのだろうかと首を捻っていると、まさにその書斎から女性が出て来た。
「あらまぁ、客人とは珍しいですね」
そう言って頭を下げる女性は、“宣来子”という名から察するに、道真の妻のはずである。
「紀長谷雄殿だ!」
「存じておりますよ。毎日のようにいらっしゃるではないですか。むしろ知らないのはあなただけでしょう」
「い、良いから早くもてなしの準備をしろ!」
はいはいと返事をした宣来子が、早足に去っていく。
「全く一々一言多いなあいつは。 さぁ長谷雄殿、奥へ行こう。宣来子が何か持って来るはずだ」
「え、あの、奥方自らなさるのですか……?」
「ああ、宣来子は何でも自分でやりたがる故そうさせている。家人が暇だ暇だと言っておってそれはそれで困るが、あれは私の好みを理解しているしな」
「はあ……」
今まで雲の上にいるかのようだった“菅原道真”という人は、何だか不思議で、けれど親しみの持てる人柄のように感じられた。もしかすると、これが本来の姿、なのだろうか。
道真に言われるまま、長谷雄は彼の後を付いて行き、辿り着いた紅梅の部屋に向かい合わせに並べられた円座に腰を下ろした。
この時点で長谷雄には道真に訊きたいことが山ほどあったが、いきなり矢継ぎ早に訊くのも躊躇われ、とりあえず奥方が来るまでは道真の話に合わせておくことにした。
「長谷雄殿、いきなり邸まで連れてきてしまいすまなかった」
「いえ。私も菅師匠にお声がけいただいたのは嬉しかったですし」
「久々に良い詩を聞いたんでつい舞い上がってしまってな……近頃は漢音を過たず押韻出来る者すら減って、それが出来ても情緒を理解しとらん詩人が多すぎる。長谷雄殿の作られた詩は技量も確かで実に美しい言の葉であった。まだこの国の詩人も終わっていないと感じた」
「そ、そんな、言い過ぎですよ」
「いやいや。 彼の国においては詩は政をも諫めるもの。ただの道楽でなく、個人の心の内も国の情勢も全てその中に込めることが出来る。色恋沙汰ばかりを詠う和歌とは役目が異なるのだ。当然学者は詩もそのように重要なものとして捉え、研鑽すべきものなのに、いつの間にか腐れ鴻儒が蔓延って詩の地位が下がってきている。憂うべきことだと長谷雄殿も思うだろう」
「ええ」
「我らが目指すべき真の国学者の姿とはそれなのだ。学閥も、廊下に通うことで箔を付けたいだけの連中も、それらと関わる時間も、全部無駄だ」
なるほど、道真が一切自分の門下達と関わろうとしないのはそれ故か、と長谷雄は得心した。思い返してみれば、たまに文章院に顔を出した時にも決まった人間としか話をせず、その会話も極めて短い。成すべきことが明確だからこそ、それ以外のものはバッサリ切り捨てるのが道真の流儀というわけだ。
自分もその無駄の一つにしか思われていなかったところ、先の詩が耳に入ったお陰で、今彼の中で自分との関わりは無駄ではないと判断されたようだ。ある意味単純明快な人だと言えるだろう。
と、ここで「失礼いたします」という声がして、宣来子が折敷を持ってやって来た。
慣れた手付きで椀と唐菓子を置くと、
「では私は書斎におりますので、何かありましたら申し付けてください」
と言い残し、またすぐに出て行った。
そろそろ頃合いかと思い、唐菓子を口に入れた道真に、長谷雄は問いかけた。
「あの、奥方は何故書斎に……?」
「ああ、また何かの書を読みに戻ったんだろ」
「書を……?」
「あれは忠臣の娘でな、漢書だろうが何だろうが昔から島田で読んでおったからうちでも自由にさせているんだ。その辺の馬鹿な学生より余程賢いし話し相手にしても不足はない。どこぞの阿呆のように私の文机の短札をいじったり書の順番を間違えたりしないしな」
だから宣来子の出入りは禁じていないと道真は答えた。
以前廊下の者から聞いた「道真の自室へ入って怒られた」というのは、長谷雄の予想した通り、部屋のものを勝手に動かしたり散らかしたからだったようだ。
なかなか神経質なところのある人だ。そこを間違える人間は近くに寄せ付けないのだろう。宣来子という人は、道真の妻としてその辺をよく理解しているようだった。
今までの疑問がかなり解消されてきた長谷雄は、出された椀を手に取って啜ろうとし、その香りに気づいて声を上げた。
「これ……まさか茶では……?」
「そのまさかだが。長谷雄殿は茶は飲まんか?」
「飲むも飲まないも、値が張るものですし……」
珍しい飲み物に、長谷雄は椀の中をしげしげと覗き込んだ。確かにただの湯と違い、仄かに色がついている。
「ここだけの話、私は酒が得意ではなくてな。少しの量で酷く酔ってしまうのだ。だからその酒代を茶に回している」
それでも酒と茶では値が釣り合わないだろう、という言葉は飲み込んだ。
しかしこれでまた疑問が晴れた。大酒飲みの良香と違い、これだけ門下で宴が開かれない要因の一つが、道真の「下戸」というわけだ。
予想外の高価な品に緊張しつつ、ゆっくりと啜ってみれば、苦味や渋味の奥に微かな甘さを感じた。大概の團茶は苦かったり渋かったりするだけで特段美味いとも感じないけれど、これは余程良い品なのか素直に美味しいと思った。
「美味しいです」
「それは良かった。しかし値が値なだけに宣来子が出し渋るんだ。特別な時にしか出さん。とは言え自分はおろか家人の誰にやらせてもこういうふうには淹れられないから宣来子に頼むほかないのだ」
「この茶も奥方が……」
さっきの「私の好みを理解している」というのはまさしくこういうことなんだろう。
馥郁とした風味を楽しみながら菓子を摘まんでいると、ふと道真が口を開いた。
「長谷雄、という名は、少し珍しいように思うが、どんな由来があるんだ?大和の初瀬か?」
「ええ、その初瀬です。話せば長くなりますが…お聞きになりますか?」
「時はたんまりあるんだ。是非お聞かせ願おう」
興味や好奇心を隠さない道真とは反対に、長谷雄はそこから視線を少し落とすようにして話を始めた。
「私の祖父は、紀国守と言い、医道を家学としてきました。しかし立てた証に基づいて春宮様に出した薬のことで一時故なき罪を着せられたことがあり、殿上人にもなれぬ医の道は諦めて、父には学の道を志すように言って亡くなりました。父の貞範はその遺言通り努力しましたが、時は既に遅過ぎました。進退窮まった父は、長谷観音にどうか賢い子を授けてくださるようにと願い、そして生まれたのが私……と、幼い頃から言い聞かされました」
苦笑混じりに告げると、道真が手を打った。
「なるほど、それで“長谷雄”なのか」
「そういうことです。ただ、ご覧の通り観世音菩薩の加護が受けられているかは微妙なところです。何せこの歳でようやく文章生。北堂に身を置いていると、自分は所詮凡人なのだと痛感させられます」
「この歳と言うが、長谷雄殿はいくつになる」
「……三十三。師匠と同い年です」
「何と」
さぞ失望することだろう。自分と変わらぬ歳でこの惨状だ。
は、と乾いた笑いが漏れた時、膝に置いていた手を掬い取られた。
「長谷雄殿は私と同い年か!そうかそうか!」
「え……」
「なら師匠ではないし、殿もおかしいな。この際師弟という間柄はやめて、友になろうではないか!」
「とと、友!?」
とんでもない道真の提案に、長谷雄は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「そうとも!私はこれから長谷雄と呼ぶ。長谷雄も、私を好きに呼ぶと良い」
「好きに!?そんな、畏れ多いです!」
「何を畏まることがある。同じ承和十二年生まれ同士、遠慮はなしだ。 ほら、道真でも良いし、唐名や字でも良いぞ」
「え、えぇ……」
にこにこと笑う道真を前に、長谷雄は非常に困ってしまった。
分を弁えて、今まで通り目立たず廊下に身を置きたい気持ちが、まずは先に立った。良香のところでの一件があってから、同じ穴の狢にならぬよう、細心の注意を払ってここまでやって来たのに、これでまた同じことになったら今度こそ終わりだ。特に道真は良香より余程他の学生との交わりがない。そんな中で目立ってしまえば、どんな非難を浴びるか分かったものではない。
しかし、菅原道真という人の特別になりたいという思いも嘘ではなかった。
なかなか他人に対して心を開かないこの人が、こんなにも自分を望んでくれている。これは千載一遇の機会に違いない。今を逃せば、二度とこんな機は訪れない……。
自分がどうすれば良いのか、どうしたいのか、分からない。
「………」
「長谷雄?」
「……すみません。お言葉は凄く、凄く嬉しいの、ですが……。その、怖くて……」
「怖い……?」
道真からすれば、この状況の「怖い」という言葉はあまりにも違和感のあるものだった。
眉根を寄せて繰り返すように問えば、長谷雄はしばらく言い淀んでから、ぽつぽつと“あの一件”について明かし始めた。
「菅師匠は、ご存じないでしょうが、私はかつて、都良香殿に師事しておりました。ある日の竟宴で、私が『幽人春水に釣す』という詩を作った時、良香殿はその詩を大層褒めてくださいました。けれど……」
「けれど?」
「……それから他の門下達に謗られ、良香殿とも疎遠になり、東曹にも、北堂にさえ徐々に居場所がなくなり、長い間親しい者も師もいませんでした」
「………」
「菅師匠はそのような話を聞く暇があれば勉学に励む方ですから、きっとお耳には入らなかったのでしょうが、恐らく学生であれば皆知っている話です。大元は知らずとも、私について良くない話を聞いたことがある者は大勢います」
現に、この廊下でもあまり状況は変わっていない。
「それでも私が文章院に居続けたのは、祖父と父の願いを叶えるため。人よりも長い月日をかけて文章生試に及第出来た時、もうこれで終わりにしてしまいたい気持ちを抑え込んで、あともう少しだけ高みを目指して子孫までの道筋を作ろうと、この廊下へ参ったのです」
「そうか、それで東の長谷雄が西の菅家へ……」
こくりと長谷雄は頷いた。
「もう二度とあんな思いはごめんだと、人前では出来得る限り息を潜めて来ました。心無い言葉をかけられても、怒りに任せて言い返さず、黙っていればそのうち飽きて皆いなくなります。そうやって私は、何とか小さな平穏を保って来たのです。──ですから、師匠と今までの関係を変えてしまうことで、その平穏が失われてしまうのではないかと思うと、怖いんです……」
また同じことが起こるのではないかと恐れる長谷雄の指先は、小刻みに震えていた。
「すまなかった……私が事情を知らぬせいで、お前に辛いことを話させてしまった……」
「いいえ……私の心が弱いのがいけないんです。私が強くさえあれば、こんな有難い誘いを二つ返事で受けられたのですから」
こんなことで迷いたくなんかなかった。もちろん、とその手を取れたらどれだけ良かったか。長谷雄はこんな自分がほとほと嫌になった。
「すみません、菅師匠。やはり私はあなたの友には相応しくない人間です。どうぞこの話はなかったことにしてください。そして、もし迷惑でなければ、これからも一門下として廊下の隅に置いてください……」
溢れる涙をやり過ごそうと唇を噛み、道真の手から自分の手をそっと引こうとした時。
反対にその手を、強く握られた。
「師匠……?」
「私は、見ての通りあまり人付き合いが上手い方ではない。せっかく祖父の代から受け継いで来た廊下があっても、それをそのまま徒党にも出来ず、狭い交友関係を更に狭くすることばかりしている」
「………」
「長谷雄。私には兄弟がいない。友も少ない。そんな中で、同じ年に生まれ、詩で心を通わせられるお前とこうして出会えたのは、きっと神仏が導いた縁に違いないのだ。 お前の辛い気持ちもよく分かる。だが、どうか私を助けると思って、友になってはくれないか」
縋るようなその目に真っ直ぐ見つめられると、長谷雄はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。
自分がまた嫌味や陰口を投げられることよりも、ここでこの人を見捨てることの方が、ずっと心が痛む気がしたのだ。

私と菅師匠は、経緯が異なるとしても今まさに孤独であることに変わりはない。であれば、互いに孤独で居続けるよりも、共に孤独を分け合えた方が良いのではないか。

長谷雄は心を決めると、道真に握られた手に力を籠めた。
「……師匠。私は、あなたを何とお呼びすれば良いでしょう」
好きにと言われると決められません、と長谷雄は微笑んだ。長谷雄の真意を察した道真は僅かに目を瞠り、それから同じように口元を緩めた。
「そうさな、長谷雄には何か、特別な呼び方をしてもらいたいな」
「特別、ですか?」
「うん。 ただの名ではつまらんから……そうだ、字で呼んでくれぬか」
「字……」
「私の字は菅三と言う。菅家の三男故そう名乗っている」
「…あれ、でも先程兄弟はいないと……」
「兄達は私の物心がつく前に死んでしまった。 長谷雄は、私に新たに出来た兄弟も同然。だから是非ともそう呼んで欲しい」
いつの間にやら友から兄弟になっていることに目を白黒させつつ、長谷雄は少し緊張気味にでは、と口を開いた。
「───菅三…殿」
それを聞いた道真は、口をへの字に曲げた。
「殿はいいと言ったろうが」
「すみません。でも今はこれでどうかご勘弁を」
これが精一杯だと言う長谷雄の顔をじっとりと見つめた後、やがて道真は息を吐き出した。
「分かった。“今は”それで勘弁してやる。だが慣れてきたら殿は取れよ」
「ぜ、善処いたします……」
ようやく納得してくれたらしい道真が握っていた手を緩めたので、長谷雄も手を離す。
それを膝の上に置いてから、長谷雄は言った。
「あ。私も一応、少し前に字を称しているんですが」
「ほう。何と言う?」
「紀寛と言います。 広く穏やかな心を、自分の道標にしたくて……」
やや恥ずかし気に告げたものの、道真の反応は今一つだった。
「うーん。紀寛、きかんか……。いや、それよりも長谷雄の方が呼びやすいし、何よりお前の父上の願いが籠められているという話を聞いたら、そう呼ぶことの方が適している気がする」
「そうですか……」
少し残念に思ったが、呼び方など些末なことだと思い直す。今は新たな友を得られたことを素直に喜ぶべきだ。
「菅三殿、これからどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそよろしく頼む、長谷雄」
長谷雄と道真。二人の生涯に渡る交友は、ここから始まった。

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