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​君の死した聖なる日

白い息が夕闇に溶けていく。
この時期は暦の上でも言われるように毎日慌ただしい。堆く積まれた本、紙の束、画面に浮かぶ大量の文字に囲まれる日々だ。思うように進まないのに締切だけが刻一刻と迫り、しかし妥協を許せない私は、自身の怒りをひしひしと感じながら、ただ黙々と部屋に缶詰になっている。食事を摂るために食堂へ行けば、もうすぐ冬休みだと浮かれトンチキになっている周囲を見て、また苛々してくる。冬休みだから何だ。ただ年を越すだけだろう。それよりその期間立ち入ることが出来ない方が苛立たしい。年明けにだって提出するものがあるんだぞ。怒りに任せて食事を乱暴に片づけ、また部屋に籠もる。そしてこの時間まで自身を解放することを許さない。疲れた。
自動ドアを出ると、外気の冷たさに身震いした。身を窄めて家路を歩き出す。
やけに街は賑やかだった。赤や緑の電飾がそこら中に光り、異国の飾り付けがこれまたそこかしこにされている。今日は何の日だったか。
疑問はすぐに解けた。コンビニに大きく「クリスマスケーキ」の文字。そうか、今日は12月25日…クリスマスだ。
別に外来イベントであるクリスマスに興味はない。だから子供達にプレゼントを買うと言う妻に金を渡し、全て任せた。まだまだ子供達は紅白の爺さんを信じているようである。今朝おもちゃを手に家中を走り回っていたなと思い出した。
耳に陽気な歌が響く。世の中は冬休みを前にとっくに浮かれトンチキになっていた。こういう雰囲気は馴染まない。どことなく居たたまれない。きっと朱に交わればそんなことは感じないのだろうが、私の中の何かがそれを許さない。友人ならきっと「何も考えず楽しんでしまえば良いんですよ」と笑って言うのだろうがそれが出来ない。しかし友人はそういう私もまた良しと笑うはずだ。
さっさと帰ろう。熱い湯に浸かって夕飯を食べたら寝てしまおう。歩調を速めた私はしかし、暫くして立ち止まっていた。
真っ白な円筒形の上に、ちょこんと砂糖菓子と板チョコレートが載り、真っ赤な苺がその周囲をぐるりと彩るそれは、ガラスの向こうで誇らしげに陳列されていた。
…きっとこういうものはどれもさほど大差ないのだろう。少し飾りや中身が違うだけで、大体生クリームの味がするんだろう。値段はピンキリでも、行程に違いはないはずだ。それがまるきり違えばまるきり違うケーキが出来上がるはずだから。
だというのに、何故かさっきから紅白の爺さんの砂糖菓子と目が合っているのだ。何だ?お前は私に何をしろと言うんだ?当日のこんな時間まで売れ残ったお前に何をしろと?お前は捨てられるか店の人間に消費されるかの運命しかないはずだろう。今更私と目を合わせてそれに抗うのか?
笑止。
良かろう。その意気や良し。
私はその気概を買うことにした。
そうだ。紅白の爺さんの気概を買ったのであって、決して妻や子供達の喜ぶ顔が脳裏を掠めたわけではないのである。

「帰ったぞー」
玄関から奥へ呼び掛けると、エプロン姿の妻が廊下を歩いてきた。
「おかえりなさい。寒かったでしょう」
「ああ。近頃は風が冷たくて敵わん」
マフラーを緩めながら答える。靴を脱いで部屋へ歩き始めたところで、妻があら、と声を上げた。
「それ、どうしたんです?」
私の手にある箱を指して訊く。
「……今日はクリスマスだろう。買ってきた」
「珍しいこともあったものですね。毎年忘れているのに」
「そうだったか?」
「そうですとも。だからまさか道真が買ってくるなんて思いもしませんでした」
「もしかして、もうお前が買ったとか……?」
「今年はスポンジだけ買ってきてこれから子供達と飾り付けするつもりだったんです。でもそれはまた明日に取っておいて、今日はそれをいただきます」
せっかく道真が買ってきたんですからと、妻は笑った。

「衍子ー、高視ー、お父さんがケーキを買ってきましたよー」
妻が部屋へ入るなり子供達に声を掛けると、バタバタと騒々しい足音が近づいてきた。
ケーキ!?と真っ先に飛んで来たのは高視で、続いてどんなケーキ?と衍子が後からやって来た。二人とも興味津々といった顔で私の手にある箱を見ている。
「中を見てみたいですか?」
妻が二人に問うと見たーい!と揃った声。
「じゃあお父さんにお願いしてみましょう」
「お父さんケーキ見せてー」
「ケーキ見たーい」
比喩でも何でもなくキラキラと輝く二つの眼に見上げられ、私はテーブルに箱を置き、皆に見えるように開けた。
「わ~!」
「サンタさんかわいい~」
「えー、サンタさんは僕のだよー」
「高視はチョコレート。私はサンタさん。良いでしょお母さん?」
「そうですねぇ、こういう時は公平にジャンケンで決めましょう」
途端に始まるジャンケン勝負。少しあの爺さんが惜しい気もしたが、黙って勝負の行方を見守る。
「まさにクリスマスという感じのケーキですね」
隣で同じように二人を見ていた妻が言う。
「まぁこういう日に買ったからな」
「どうしてあれにしたんです?」
「……特に理由はない」
「……そうですか」
妻はそう言って微笑んだ。

その笑みを、多分私は、あの寒々しい南の館で、もう一度見たいと、そう思っていた。
竹に包まれた昆布、生薑。
人に貸した北の土地。
三ヶ月ぶりの文は萬金にあたるほどで。
最期を京の外れで迎えた苦しみは。
邸から消えた梅は。
もう、どこにも。どこを探しても。
今は全て、何もかも、夢のような。
あの日の落雷も、私が天神に手を合わせる矛盾も、この国のどこかで神と崇められていることも、全部。

最早知らぬこと。

流れ来てそして消えた知らぬ記憶を、私はまさしく他人事のように見送って。
「やったぁー!私の勝ちー!」
「ちぇー」
雌雄を決したらしい子供達と妻とでケーキを囲み、それが切り分けられる様を眺めた。

──妻の死を知らせる文を見た直後、私は体調を崩し、その10日後にはそのままあの世送りとなった。
ついに生きて再会することの出来なかった私達が、こうして西洋の祭りに託けてケーキを口に運んでいるのは、果たして何の因果か。よく知りもしない遠い国の神の誕生を祝う世の中でただ一人、毎年私だけが彼女の死を思い出す。

私はこれから先も、きっと今日という日を好きにはなれないのだ。

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