詩草二首
じわりと汗ばむ陽気の中、庭の草花に水を撒く。近頃は雨が少ないため、仕方なくこうして毎日手で水をやっている。
花は良い。手をかけただけ応えてくれる。手のかけ甲斐もあるというものだ。
手桶が空になったところで一つ息を吐き、空を見上げれば、鋭い陽射しが目に突き刺さった。そろそろ休むか。
桶と杓を片付け、邸へ戻ろうとすると、丁度宣来子が折敷を持って濡れ縁を歩いていた。
「あら、終わりました?」
「ああ。たった今な」
「そんな頃合いだと思いました。水と瓜を持って来ましたよ」
そう言って座り込んだ隣に私も腰掛けると、手を拭くようにと濡らした布を渡された。
「なかなか雨が降りませんね。降る時は突然大雨が降りますし」
手を拭き終わると、すぐさま水を注いだ椀が手渡される。一気に煽れば、喉の渇きが瞬時に癒えた。
「大雨も、根腐れを起こしたり茎が折れたりして良くない。百姓とて、種や土が流れたりもするから、単純に恵みの雨だとは言えん」
「良い塩梅に、というのは難しいですね」
皿に並べられた瓜を一切れ口に入れる。まだ時期には早いが、ちゃんと甘い。それによく冷えている。
「どうです、庭の花は咲きそうですか」
「去年より暑いが、まぁ問題はなかろう。ただやはりもう少し雨は降って欲しいが。手で撒くには限界がある」
「こう毎日暑くては撒いても撒いても切りがありませんものね」
そう言って宣来子も瓜を口に運ぶ。余程美味かったのか、微かな笑みが零れた。
「この瓜はどうしたんだ?」
「ああ、家人の生家が寄越したそうです。自分でお上がりなさいと言ったのですが、是非私達にも食べさせたいと言うので貰いました」
「そうか。来年も送ってくれると良いんだがな」
「気に入りました?」
「ああ」
「では真竹にはそう言うておきましょう」
答えつつ空いた私の椀にまた水を注ぐ妻の顔に目を遣ると、ふとあることを思い出した。
「……そうだ」
「何です?」
「お前の顔を見て思い出した。仲平と仲方に用があったんだ」
「……人の顔で思い出さないでいただけますか」
宣来子がむ、とした顔をする。
「仕方なかろう、お前の弟御なのだし」
「まぁそうですけれど。 それで、用事とは?」
「詩をいくつか見せようと思っていてな。二人の詩も見てやるつもりだ」
「そうですか。 そう言えば文で、この頃義兄上がお見えにならない、と仲平が言っておりました。良い折ですし、行かれてはいかがですか」
「ああそうする。着替えて午後は島田だな」
折よく吹いて来た風に揺れる草花を眺めながら、私はそう決めたのだった。
久し振りに訪れた島田の邸は、記憶と殆ど変わりなかった。
強いて言えば庭の畑の薬草が気になったくらいである。
「ああこれですか、父上が最近庭で育てるのに凝っているのですよ」
じっと視線を向けていたら、私が問うより先に仲平がそう説明してくれた。
まだ言い回しに迷う部分が残る詩を義弟二人に見せながらああでもないこうでもないと意見を交わし、二人が最近作ったという詩も見せてもらった後、出された酒と簡単な料理を肴に、いつしか話題は勉学とは関係のないところへ行きついていた。
「これは何度でも言いますが、本当に義兄上と姉上が妹背になってくれて良かったと、我らはいつも思うているのですよ」
「そうですそうです。姉上には道真兄様しかおりませんし、逆もまた然りです」
「そうかぁ?ただ余り物同士をくっつけただけに過ぎんだろう」
「いやいや、姉上も義兄上のところでなければ嫁に行かなかったでしょう。姉上は自分より頭の悪い人間は嫌いですからね」
「それじゃあお前達は嫌われていることになるな」
「あー!言いましたね、本当のことでも酷いですよ!」
私の盃に酒を注ぎながら、仲方が口を曲げた。
「お前はもう少し勉強せんか。 お前達は島田の男児なんだからな、文章生になっただけで安心している場合ではないんだぞ。丈父殿のように出世していかねば」
「珍しい、義兄上が父上を名前で呼ばないとは」
「もう酔っているんですかね?」
「私は酔っていない!」
「……そういう人ほど酔っているんですよ、義兄上」
呆れたように言って、仲平は手酌で注いだ酒に口をつけた。
「しかし、義兄上も馬鹿はお嫌いでしょう。いつも廊下で箔をつけたいだけの出来の悪い学生の文句を言うていますし。似た者同士ですよね」
「えー、私は嫌わないでくださいねぇ!?」
取りすがってくる仲方の額に手刀を入れてやった。大袈裟な反応をして、仲方が額を押さえる。
「単に馬鹿が嫌いというより、努力もせず、勉学が嫌いなくせに都堂院に居座る奴らが嫌いなんだ。あそこは聖域だ。真に学びたいという心がある者だけ入れれば良いものを、貴族共の顔色を伺ったりして……腹立たしいことこの上ない」
仲方が注いでくれた酒を手にして、一気に流し込みたい衝動を抑え、ちびちびと舐めることにする。急に入れると意識が飛んでしまうから気を付けなければならない。
「姉上の口癖は、きっとそれなんですねぇ。我らに幼い頃から繰り返し都堂院でしっかり学ぶよう言うていました」
「まぁそれもあるだろうが、私には、姉上は我らを羨ましがっているようにも聞こえたな」
「羨ましがる?」
「ええ。 いくら頭が良かろうと、姉上は女子である限り文章院には入れません。父上の子として最初からその道が拓かれている我らには、自分の代わりにきちんと学んで欲しかった気持ちがあったのだと思います。入ってすぐは、毎日毎日様子を訊かれたものです」
「そうか……」
宣来子からそういう話を聞いたことがなかっただけに、随分新鮮に感じた。あれも外で学びたいと思ったことがあったのか。
「とは言え、公に学べないだけでうちは父も母も学問には寛容でしたけどね。書も自由に読めますし」
蘇を摘まむ仲平を見ながら、結婚した当初のことをふと思い出す。
宣来子は、夫婦になってからしばらくは今と比べて随分大人しかった。あまり自分の意見は言わず、どこにでもいるような夫に付き従う妻、という感じだった。
それが大きく変わったのは、宣来子が書斎に入って来た時のことだ。
私が中で思いついた詩の一節を短札に書き入れていた時、控えめに戸を叩く音がした。
「……道真様、そこにおられますか」
「ああ。何か?」
「中の掃除をしたいのですが」
「掃除……? ここはいい。他をやってくれ」
「他は終わりました。あとはこの書斎だけなのです」
いいと言っているのに、随分と食い下がる。存外頑固な女子なのかもしれない。
面倒になって戸を開けると、そこには掃除の道具を持った宣来子が座っていた。
「ようやく開けてくださいましたね。少し外へ出ていていただけますか」
「それは困る」
「何故でしょう」
「ここにあるものを勝手に動かされると困るからだ。 どうせ書の順番も分からないのだろう。ここにある札も、訳も分からず捨てるに決まっている」
「……大変差し出がましいことを申し上げますが、白氏文集の順番くらい分かります。それに、──これは書かれた時代ごとに並んでいるのでしょう?でしたら動かそうとも元に戻すことは難くありません」
ちらりと奥の書棚を見た宣来子は、それから真っ直ぐこちらを見て毅然と言った。
それからというもの私は、宣来子に限っては書斎に入れることにし、また言われれば書物も自由に貸すようになった。紀伝道や詩の話もするようになった。
何故最初から言わなかったのかと訊けば、「父や弟達から道真様は気難しい方だと聞いていたもので」とさらりと答えた。こういう軽口を叩けるようになったのも、その出来事があってからだった。
「まぁそれもあって、姉上は義兄上のところへ行って良かったと思うんです。菅原でも島田と同じように書物が読めるから何も困らないと以前姉上が言うておりました」
あの頃合いで書斎への出入りを許さなければ出て行かれた可能性もあった、ということである。そこまでいかなかったとしても、島田へ頻繁に宿下がりしていたかもしれない。
「……宣来子が出て行かないでいてくれるのは、あの書斎のお陰、か」
そう呟くと、仲方がいやいや!とすぐさま否定する。
「勿論それだけではないですよ!いくら書が読めようが相性が悪ければ最悪離縁だってあるところ、姉上と道真兄様はここまで続いているではないですか。それはそこにどんなものであれ情があるからでしょう」
「情……」
手の盃の、波打つ波紋を見つめる。酔っている所為だろう、それは幾重にも重なって見えた。
「宣来子に、そんなものあるんだろうか」
「まずいですよ兄上。道真兄様、今日相当酔ってますって」
「そうだな。注ぎ過ぎたかもしれぬ。ここまで弱気になるとは」
何だか視界が滲んで来た。鼻の奥がつんとする。
「私は、あれに何もしてやれていない。精々島田と同じように学問が出来る環境を与えられたくらいだ。しかしそれだって元々菅家にあっただけのもの。同じ書物があれば宣来子はどこでだって暮らしていける。こんな私の元でなくても……」
「義兄上、義兄上。もう帰りましょう。飲み過ぎです」
「帰ったところできっと宣来子は待っていないんだ……今日はもう泊まっていく!」
「待っているに決まっているではないですか。姉上は我らの前では道真兄様の話しかしないのですよ?」
「どうせ私の愚痴だろう。偏屈だとか神経質だとか友が少ないとか」
「いや、うーん……それは言いますが、義兄上のことを案じているんですよ」
「ほらやっぱり言うているではないか!そのうち私に愛想を尽かして出ていくんだ!」
「出ていきませんって。 もう~、とにかく帰りましょうよ~」
「嫌だ!帰らん!」
「───帰りますよ、道真」
私の腕をぐいぐい引っ張る仲平と仲方に抵抗していると、そんな声が耳に響いた。それはやたらと聞き覚えのある、我が妻の声だった。
「姉上……」
「姉上、良かった!来てくださったのですね!」
「来てくれた、ではありません。全く、酔っ払い一人にどれだけ手こずっているんです。帰りが遅いと思って来てみれば。 あれほどこの人に酒を飲ますなと言うたでしょう」
「すみません……」
「でも兄様が飲み始めたのですよ。少しだからと」
「黙らっしゃい。 いいですか、道真は飲み始めたら少量でも駄目なんです。おまけに泣き上戸で面倒なんですから。見てみなさい、この惨状を」
大きく溜息を吐いた宣来子は、私の隣に腰を下ろした。
「弟達が失礼しました。帰りましょう、道真。歩けますか」
「嫌だ……帰らん」
「……何故嫌なのですか」
「……お前は、私に帰って来て欲しくないだろう?」
私の声に、宣来子はさっきよりも更に大きな溜息を吐いた。
「帰って来て欲しくなければわざわざ迎えになど来るものですか。少し考えれば分かるでしょう。それでも文章博士ですか」
「今は文章博士でも、いつか任を解かれるかもしれん。そうしたらお前は出ていくんだろう」
「何ですかそれは。あなたの職が変わるたびに私は居を変えねばならぬのですか?冗談じゃありませんよ」
「それなら、私が何になろうとどこへも行かないか?もっと書が揃っていて賢い男の元へ行ったりしないか?」
「はぁ?」
まさしく訳が分からないと顔に書いた宣来子は、私の問いには答えずに、義弟達を振り返った。
「説明なさい。道真はどうしたんです」
ぴしゃりと言われた仲平と仲方は、恐る恐るといったふうに口を開いた。
「わ、我らはいつも通り義兄上と姉上が一緒になってくれて良かった、という話をしたんです。姉上は頭の悪い殿御はお嫌いだから、義兄上のところだからこそ嫁に行ったのだと」
「島田のように自由に書物も読めるし、菅原へ行って良かった、という話もしました。それで兄様があの書斎があるから姉上は出て行かないだけか、なんて言い出したので、ちゃんと情もありますよ、と言うたのですが……」
「なるほど」
そう言って宣来子はまたこちらを向いた。
「いいですか道真。私があなたと夫婦でいるのは、菅家に書がたくさんあるからでも、あなたが賢いからでもありません」
「え……」
「あなたが、他ならぬ菅原道真だからですよ」
と、言われてもよく分からずぽかんとしていると、宣来子は短く息を吐いて続きを口にした。
「あなたがあなたという人間だったから、私はこれまでやってこられたんです。それは、面倒くさい時もありますけれど、正直で飾らなくて、無骨な優しさをくれる道真だからいいんです。この先どうなろうが、道真が道真でいる限り、私達はずっと夫婦です」
「宣来子……」
「今更離縁だなんだと面倒なことを言い出さないでくださいね。まぁ道真から言い出されたら私はどうすることも出来ませんが、とりあえずこちらにはその気はありませんから」
大体子もいるのに何を言い出すんですか……と宣来子は額を押さえた。
「ほら、帰りますよ」
「……ああ」
差し出された手を取って、立ち上がる。何だかふわふわする。
「今度飲ませたら承知しませんからね」
「は、はい……」
「お気を付けて」
義弟達に見送られ、宣来子に手を引かれながら、島田を後にした。
外へ出ると、何だか辺りが明るかった。
「月が出ていますね。良かった、これなら帰りも困りませんね」
まだそこまで遅い刻限ではないとは言え、薄暗い中を歩くのは些か危険であり、この月夜はありがたかった。
「すまない、宣来子」
「悪いと思うならちゃんと歩いてくださいよ。流石に負うたりは出来ませんからね」
私の覚束ない足元を一瞥して、宣来子が言う。夜風に当たって少し酔いが覚めたような気がしたが、それはやはり気の所為だったらしい。歩いてみるとものの見事に酔っ払いだった。
「気持ち悪くはないですか?」
「ああ……何とか」
「全く。仲平と仲方も悪いですけれどね、一番は道真ですよ。もういい歳なんですから自制出来ないと。いつでも私がこうして迎えにいけるわけではないのですから」
「そうだな……」
「昔から何度も酒で失敗しているのに、どうしてこうも懲りないのです。ご自分でも分かっているのでしょう、吐いたり頭が痛んだり、はたまた失言をしたり忘れ物をしたり……その度迷惑をかけられる私の身にもなって欲しいものです」
三度大きな溜息を吐く宣来子に申し訳ない気持ちもあったが、よくもそこまでつらつらと説教が出て来るものだと少しうんざりもした。そして当然それらは伝わってしまったらしく、
「何ですか。言っておきますけど今日の道真に反論する権利はありませんからね」
とぴしゃりと言われてしまった。御尤もである。
「……何故私は、酒が飲めんのだろうな」
「知りませんよそんなこと」
「彼の李白は、一斗の酒を飲むうちに百篇詩を作ったという。 酒の力をちゃんと活かせれば、或いはもっと良い詩歌を作れたのかもしれん」
「飲中八仙の良い部分だけ切り取るのはおやめなさいましね。どれだけ酒に強かろうとも、過ぎたるは及ばざるが如しで、失敗する人もいたと杜甫は書いているでしょうが」
「それは、そうだが……」
口籠ると、宣来子が足を止めて振り返った。
「ああだったらこうだったらと、どうしようもないことをおっしゃいますな。あなたが酒に弱いのはそういう体質というだけで、最早仕方のないことです。さっさと諦めて飲めないなら飲めないなりにやるしかないでしょう」
「……う、ん」
「………。帰ったら水に糖と塩を混ぜたのを作ります。それで少しは正気に戻るでしょう」
ふい、と前を向いた宣来子が、どんな顔をしていたのかは分からない。
けれど急に少しだけその声が丸くなった気がして、しかし私にはその理由が分からず、ただ首を捻るばかりだった。
煌々と輝く月の光に導かれるように、私は宣来子に手を引かれて家路を辿った。