top of page

​ある日の白梅殿

苛々する。
それというのも目の前の夫がずーーっとあーだのうーだの言いながらそこら中を歩き回っているからだ。
もうすぐ旬試なのでその勉強をしていたのだが、どうやら何かの書の解釈に詰まったらしい。ぶつぶつ言いながら行ったり来たりし続けている。
いい加減我慢の限界だ。
針山にずぶりと針を刺し、裁縫を中断すると、私は立ち上がって夫の前に立ちはだかった。
「え?……どうした宣来子」
「どうしたもこうしたもありません。さっきからうろちょろうろちょろ…!もう喧しいったら!!」
「そ、そんなにうろちょろしとらんだろう」
「いいえしています。そこを柱まで歩き、またこちらまで戻るのを十往復はしております」
夫の動き回った場所を指し示して見せると、流石に口を噤んだ。
「悩むのなら静かに。それが出来ないのなら紅梅の方へ行かれませ。こちらでそのようにされると折角掃除をしたのにまた埃が立つでしょう?大体私が今針仕事をしているのが分かりませんか」
「は、針仕事など後で……」
「誰の単だとお思いですか」
ピシャリと言えば、夫はすごすごと文机の前へ腰を下ろした。
どうやら今日は紅梅殿へ行く気はないらしい。こういう日の厄介なところは、夫が何かしている時に音を立てると怒るので、はっきり言って一日何も出来ないということだ。あちらへ行ってくれれば仕事が捗るものを、時たまこういう日がある。ならばと夫がいない間に書斎を片しに行けば、私に付いてくることさえある。生まれたての雛かこの人は。
と、ひょっこり柱の影から誰かが顔を出した。目を凝らせば娘の衍子である。後ろには高視もいる。
は・は・う・え
口をパクパクさせ、そう言っているのが分かった。私に何か用があるけれど夫の機嫌を損ねるわけにも行かないので困っているのだろう。
な・あ・に
聞き返してみると、衍子が手を使って何かを伝えようとする。腕を伸ばし、その上に何か丸い物があると言っているように見える。高視は掌を頭の上にやり、耳のようなものを作った。何やら生き物がどこかに乗っているようだ。
「どうした」
縫物の手を止めて不自然な動きをする私に気づいた夫が怪訝な顔をした。
「いえ、衍子達が」
「衍子?」
案の定不機嫌そうに振り向くと、子供達は背筋を凍らせた。
「ご、ごめんなさいお父様。あの、梅の木の上に、猫が……」
「猫…?」
「猫でしたか」
合点が行き、私は手を打った。
「こちらへいらっしゃい。父上は勝手にここにいるだけですから遠慮は要りませんよ」
「勝手にとは何だ」
ぶつくさ言う夫は無視して手招きをすると、衍子と高視が小走りにこちらへやってきた。
「お母様、猫が降りられないのです」
「食べ物や玩具で釣ってもこっちを見ないのです」
「それは困りましたねぇ」
「猫など放っておけ。時が経てば好きなところへ行こう」
「ふふっ」
「宣来子?」
突然笑い声を上げた私に、夫は小首を傾げた。まるで夫のようだと笑ったのは分からなかったらしい。
「いいえ何でもありません。さ、衍子、高視、猫の場所へ案内してちょうだい」
「お母様、でも……」
気配りの出来る衍子はちらりと夫の方を見た。私がここを去ることで夫がへそを曲げると思っているのだろう。
「大丈夫。 ほら、父上も行きますよ」
「な、何故私も行かねばならんのだ。もうすぐ旬試なのはお前も分かって──」
「気分転換ですよ。邸の中にいては自慢の頭も凝り固まって使い物になりませんでしょう?外へ出て新鮮な空気を吸えばまた集中出来ます」
「う、む……そうだな」
納得したらしい夫も連れて、4人で庭へ降りる。衍子と高視が私達の方を時折振り返りながら先導し、猫のいる梅の下へと辿り着いた。
「お母様、お父様、あそこです」
見上げると幹の上に虎猫がいるのが見えた。
「まだ子猫ですね。どうにかして下ろしてやらねば」
「自分で登ったのだろう。降りられぬところへ行く方が阿呆だ」
ふんと夫が鼻を鳴らした。
「子供と言うのは冒険をしたがるものです。ああして挑戦と失敗を繰り返して少しずつ行動範囲を広げるのですよ。父上だってそうだったでしょうに」
「私はあんなヘマはしない」
本気で言っているのだから困りものだ。
「母上、どうすれば良いのでしょう。我らにはもう知恵がありませぬ……」
「そうですねぇ。 こういう時こそ父上の頭の使いどころです。きっと良い方法を見つけてくれますよ。ね、父上?」
「はっ?私か?」
自分に飛んでくることが予想外だったのか、夫は素っ頓狂な声を発した。
「お前に何か名案でもあるのかと思っていたぞ」
「あら、私そのようなことは言っていませんが?」
さらりと答えれば夫は閉口し、腕を組んで梅を見上げた。素直に策を練ってくれるようだ。
「……梅は背があまり高くない。枝も途中からはぐっと細くなるが、三分の一くらいなら横に伸びているし登りやすい。ただ猫は人が登るには危険な場所にいる。何よりこの木は老木で、登れば腐ったところが折れる可能性もある。手は届きそうもない」
「では、如何なさいますか」
そう促すと、夫は振り返り言った。
「私が子供達を肩車すれば高さは足りよう。衍子、高視。猫に慣れているのはどちらだ?」
「はいはい!父上!私がやります!」
高視が真っ先に手を挙げた。
「衍子、高視は大丈夫ですか?」
こそっと衍子に聞くと、衍子はにっこりと笑う。
「はい。私より高視の方が動物に慣れています。それに高視の方が軽いです、私は髪や衣が余計に重いですから」
「確かにそうですね。では高視にやらせてみましょうか」
言ううちに夫が高視を肩へ乗せた。少しふらついたので支えながら立ち上がらせる。
「高視ー、届くかー?」
「ち、父上、もう少し木に近づいてください…!」
懸命に高視が手を伸ばすが、安全に猫を捕まえられるだけの距離にいない。かと言って、
「近づいても良いが…顔が、枝に…!」
夫があと二歩梅に迫れば枝にぶつかってしまう。
「高視っ、座ってないで立ち上がって距離を稼いで!」
衍子が助言をするが、高視が立ち上がることで二人とも姿勢を崩しかねない。
と、そこで私にある策が思い浮かんだ。踏ん張る文官の夫に問う。
「──道真、まだ辛抱出来ますか」
「え、宣来子…っ?」
「出来るか出来ないか訊いています」
「……分かった。何だか知らんが頼んだぞ」
「はい」
私は身を翻すと蔵へある物を取りに向かった。

私が戻ると、言った通り夫も高視もあの体勢のまま持ち堪えていた。
「よくぞ耐えました。二人とも少し離れて」
「の、宣来子……」
「母上…!」
「お母様…っ」
ザンッ。
安堵や期待の眼差しを受けながら、持ってきた薙刀を構え、妨げとなっている枝を落とした。
「あ、ああ……」
直後夫から情けない声が上がる。我が邸の梅はそのどれも皆夫が丹誠込めて育て上げた自慢の木だった。枝振りも、成長するごとに拘って切り揃えて来たのである。
「枝などいくらでも成長します。それよりよろけて高視を落としませんように。高視が猫を捕まえるまで気を抜いてはなりませんよ、良いですね?」
手厳しく言えば、夫は涙を飲むようにして頷き、先程よりも梅へ近づいた。
「もうちょっと……おいで、大丈夫こっちだよ~……よし!」
尊い犠牲によって無事子猫は助け出された。暴れもせず高視の腕に収まったのは幸運だったと言えよう。もう猫との格闘に耐え得るだけの体力は、夫に残ってはいなかった。
「わ~…。姉上、毛がふさふさだ!」
「本当ね。かわいい~」
子供達が子猫と戯れている一方で、夫は肩で息をし、ぐったりとしていた。
「お疲れ様でございました」
「はぁ……もっ、本当に死ぬかと思うたぞ……っ」
「普段読み書きしかしない学生の割に見事でしたよ」
「そりゃ…そこそこ鍛錬はしておるし……、刀も弓も嗜むがな……」
夫は文人であるが全く武芸が出来ないわけではなく、むしろ弓などは得意であった。そういう面を怠っていないのを知っていて、且つ負けず嫌いな面も理解しているからこそ辛抱出来ると踏んだのだ。
「それはそれとしてお前、あんなにバッサリ枝を落としおって……」
「あの場はああするより他にありませんでした。猫があのまま降りられず落ちたり餓死するより余程良いでしょう。数年経てば元通りになるのですから」
「まぁ猫のことは良いが……しかし、はぁ……」
「いつまでもうじうじ言わない。枉尺直尋(大きなことを成功させるためには、小さな 犠牲はやむを得ない)。そういうのが官人の心構えですよ」
「うん…まぁ、なぁ……」
想像以上に堪えているようで、こちらも何だか罪悪感が湧いてきた。
「…悪うございました。梅の世話は私も手伝います」
「……ん」
私が謝ると流石に諦めたようで、頷いて体を起こした。
「さて、お前達もう戻るぞ。その小汚い猫も体を拭いてやりなさい」
何気なく言ったその言葉に、子供達は目を丸くした。子猫を二人で抱いたまま固まって夫の方をじっと見つめている。
「な、何だ……」
我が子の様子に怯む夫を見て、私は思わず笑い声を上げた。
「あなたがあまりに意外なことを言うので、二人とも驚いているんですよ」
「どこが意外だ!」
心外だというふうに言う夫に、慌てて子供達が取りなす。
「ちっ、違うのお父様!」
「ただびっくりしただけなのです!」
「こら高視!びっくりしたって言っちゃだめ!」
「あっ」
言えば言うほど墓穴を掘ってしまう子供達と、それを聞きながら顔を面白いほど歪めていく夫が可笑しくて可笑しくて、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。
「何がおかしいのだ!!」
「っふふ……すみませんでした。 じゃあ戻りましょうか。衍子、高視、子猫はそのまま邸に入れると汚れてしまいますから、体をよく拭いてから入れましょうね」
私がそう声をかけると、子供達は元気に「はーい!」と返事をした。
「丁度良い時間になりましたし、お腹も空いたでしょう。唐菓子でも食べましょうか」
「良い考えだな」
「やった!」
そのままわいわい言いながら邸に戻り、子猫を綺麗にした後皆で菓子を食べた。
それから少しして、
「猫に名をつけてやらねばいかんだろう」
という、またらしくない夫の提案により、梅の木にいた小さい猫だからという理由で、子猫は「小梅」と名付けられたのだった。

bottom of page