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なみのよするか

「釣れませんねぇ」
心底つまらなそうに、宣来子が呟いた。
海に釣り糸を垂らして半刻。竿はピクリとも動いていない。ただ一定の間隔で打ち寄せる波の音が聞こえるだけだ。
「おかしい……」
眉根を寄せて道真が言う。
「何がです?」
「この辺りなら必ず釣れると漁師が言ったからここに決めたのに、全く釣れんではないか」
竿を握り締める道真の声には、理不尽から来る怒りが少し見て取れた。そんな夫に、必ずなんてあるわけがないと宣来子は言う。
「今日"は"釣れないのかもしれませんよ。或いは漁師ならば釣れるのかもしれません」
「まるで私の腕がないから釣れぬとでも言いたげだな」
竿の先を睨みながら口をへの字に曲げる。
「実際今まで釣りなどしたことがないではないですか。簡単なように見えて、何事もその道で生きている人には敵わぬものですよ」
さらりと宣来子が言う。道真はそうやもしれんなと納得した後、しかしと続けた。
「お前は釣れんでも良いのか。今日の主菜がないのだぞ」
「それは困りますけれど、まぁ先日分けていただいた豆もありますから何とでもなります」
海を見つめつつ、宣来子は頭の中で厨を思い浮かべた。庭の菜と煮れば今日は何とかなるだろう。
「ならもう止めだ止めだ。陽もすぐ沈むし帰るぞ」
そう言って乱暴に竿を引き揚げると、反対に体が海の方へ持って行かれそうになった。
「道真!引いています!」
落ちないよう夫の体を支える。いつの間にやら釣り糸がぴんと張っていた。
「そんなことを言われてもっ、私はお前の言ったように釣りなどしたことがないんだぞ……!」
「ならば何故釣ろうと思ったのですか……っ!」
言い合いながら必死に二人で竿を引いているうちに、段々"それ"は陸へと上がってくる。次第に水面に黒く大きな陰が見えてきた。
「何だかやけに大きいぞ!?」
「この竿だけで釣れるのですか!?」
興奮と同時に焦りも生じて来る。普段小ぶりなものが焼かれた姿か、細かく切られた魚しか見て来なかった元平安貴族の二人の目には、庶民の思う以上に魚影は大きく映った。
その姿をこの目で見たい一心で竿を揚げれば、やがて魚は水面から顔を出し、その後は水の力も失せ、存外軽く手元へとやって来たのだった。
釣り上げた勢いで尻餅をついた二人は、呆けた顔で陸に上がった魚を見つめた。
「誰の腕がないだと…?」
勝ち誇って言う道真に、
「ただの偶然ではないですか」
と、宣来子は淡々と返した。


一匹だけの釣果を手に、家路を行く。釣れた魚は、偶然にも道真の好物である鰈だった。魚は既に三枚に下ろされ、さく状になっていた。魚など捌いたことのない二人は、あの場所を教えてくれた漁師を頼り、加工してもらったのである。
「久々に良いものが食べられるな」
「あら、普段の食事が不満ですか」
「それは不満だろう。元大臣家なんだぞ、あの頃は毎日が宴のようだった」
「そうですねぇ。 されど元々はただの学者の家。讃岐から戻るまではつましい暮らしでしたよ」
「そんな頃もあったなぁ」
「まぁずっとあんな豪勢なものばかり食べていれば胃が保たないでしょう」
「なるほど、爺婆には丁度良い食事かもしれん」
「そうですよ」


元右大臣菅原道真が京から遠く離れた筑紫の地にやって来て、はや半年が経とうとしている。
讒言による左遷という名目上、本来であればわずかな共だけを連れてさもしい暮らしをすべきであったが、宿痾もあり気難しい性格の夫を案じた妻の宣来子が、誰も共を付けなくて良いから、代わりに年老いた婆──自分──一人を伴うことを許して欲しいと願い出た。
紆余曲折あったものの、願いは聞き届けられ、斯くして筑紫での夫婦生活が始まった。
始めは慣れない畑仕事や水汲みなど、老体には大変なことも多かったが、毎日のように体を動かしているうちに、徐々に百姓然とした生活にも馴染んできている。
元々宣来子は母親に仕込まれた炊事洗濯の能力が高かったこともあり、身の回りのことにはさほど苦労しなかった。問題があるとすれば、そんなことはしたこともなく、学者として、そして政治家としてしか生きて来たことのない道真の方だった。
男手という括りで言えばこの家には道真しかおらず、力仕事に関しては流石の宣来子も夫を頼りたいところであったが、並みの学者より武芸の腕がちょっとあった程度ではそれらはどうにもならず、最早夫婦どちらがやっても同じという状況であった。そういうわけで、それはそれと潔く諦め、極端な分担はせず、力仕事は協力して行うことになったが、かと言って炊事や洗濯を道真が出来るわけでもないため、やはり負担は宣来子に圧し掛かっていた。それでも宣来子は、基本的に夫は放任している。それは、詩作や庭弄りが好きで子供っぽいところのある夫の性格を、誰よりも理解しているからなのだった。要は言ったところで意味はないということである。


「いただきます」
声を揃えて手を合わせた二人の前には、焼かれた鰈が並んでいる。
「煮ても良かったのですが、臭みを消すようなものが何もなかったので単に焼きました」
宣来子が鰈の調理法について話をするが、それには殆ど耳を貸さず、道真は早速箸を伸ばした。
「……旨い!」
「それは良うございました」
その後も旨い旨いと繰り返しながら、あっという間に少ない夕餉を平らげてしまった。
「もう歳なのですから、そのような早食いは寿命を縮めますよ」
「普段はしとらんだろ。 好物を前にゆっくり飯を食べる奴などあるものか」
子供か、と内心宣来子は思った。今までいくら思ったか知れない。自分が腹を痛めて産んだ子より余程子供で、手が掛かる。
「明日も釣りへ出ようか」
「どうせまた釣れずに臍を曲げるだけでしょうに」
「何を言うか。臍を曲げて曲げて、渦を描くくらいになって今日はようやく釣れたんだ。粘れば釣果はある」
「だと良いですけれどねぇ」
真面目に取り組んでも報われないことがあるのだと、先の件でこの人は学んだのではなかったか。なのにまだここまで前向きな思考が出来るのには恐れ入る。
薄い、ほぼ汁だけの羹を啜りながら、宣来子は思う。
そう。あんなことがあって、余程落ち込んだと見えたが、何故か筑紫へ来てからの夫はやたらと楽しそうなのである。それが宣来子には妙に不思議だった。
「お前も海へ行くだろう」
「え……」
「む、行かぬのか?」
「いえ、その。今日は初めてでしたし、心配なので付いて行きましたが、次はもう良いかと思っていたもので」
口には出さないが、洗濯や畑仕事など、家の仕事はごまんとある。
どうやら釣りに嵌ったらしい夫は恐らくこれから毎日のように海へ行くだろうが、それに毎回付き合っていたのでは家の事が片付かない。
「そうなのか? 明日はお前もやってみたら良い。隣で見ているだけではつまらんだろ」
純粋な夫の提案に、宣来子はついさっきまで考えていたことが吹っ飛んでしまった。
「えっ、良いのですか?私もやって」
元来好奇心は旺盛な方で、しかし自分よりもっと旺盛な人間が常に隣にいるが故に、無意識にそれらは抑えていた。
実を言えば、隣で釣糸を垂らす夫を眺めながら、その竿を少し私に貸せと思っていたりした。それを見透かされたのかは分からないが、ともかく自分も出来ると聞けば、もう宣来子の明日の予定は丸一日釣りと決まってしまった。
「ああ。 一人で魚を待つより、二人で待った方が機は倍だ。名案だろう」
案の定、道真は妻の気持ちを汲み取ったわけではなかったが、最早宣来子には些末なことであった。
「そうと決まれば早く寝なくては。早朝から行くのですよね?」
「ん、ああ。そうだな」
普段淡白で物静かな妻のどこか興奮した様子に、道真は一人怪訝な顔をするのだった。


翌朝。軽く朝餉を食べ終えた二人は、合間に食べる乾飯を持ち、海へとやって来た。
早速昨日と同じ場所に座り込もうとする道真を、しかし宣来子が引き留める。
「今日は場所を変えましょう」
「ん?この辺りが釣れると漁師が言うたではないか」
「飽くまで“辺り”でしょう。それにずっと同じ場所にいても、魚とて水中で動いているのです。潮の流れもあるのですから、少しずつ場所を変えながら待った方が良いと思います」
「……分かった。 で、どこにするんだ」
「あっちです!」
一本の松が植わった場所を宣来子が指差した。ところでどうしてこやつはこんなに元気なんだ……?と眉根を寄せつつ、道真は小走りで遠ざかっていく妻を追った。
漁師が分けてくれた生き餌に、昨日は怯んでいた宣来子だったが、もう慣れたらしく、手早く釣り針に付けると、すぐさま海面へと放った。その隣に腰掛け、道真も竿を振る。
しばらく黙って釣糸の先を見つめてからちらりと目線を動かせば、いつになく上機嫌な妻の横顔があった。何と言うのか、恰も少女のようなその顔は、記憶の限りでは初めて見たものであった。
「何がそんなに楽しいんだ?」
そっと問い掛けると、宣来子は首を傾げてこう返した。
「あら、楽し気なのは道真の方でしょう?」
「私が……?」
思わぬ返答に当惑すると、続けて宣来子は言った。
「そもそも左遷というかたちでここへ来て、右大臣という極官まで昇ったにも関わらず、一転南の果てで斯様な侘しい暮らしをする羽目になっているのです。なのにこの釣りも含め、何だか随分と毎日楽しそうなので、不思議に思うていました」
それは……と口を開いた道真は、けれどもう一度それを閉じてしばし逡巡し、それから改めて答えた。
「……此度のことは、広範囲に影響が及んだ。子供らも、門下も、皆巻き添えを喰った。……故に、大っぴらに言えなんだが………」
「はい」
「……ここだけの話、今の状況には、実は──感激しているのだ」
「……はい?」
凡そ似つかわしくない「感激」という言葉に、思わず宣来子が聞き返すと、道真は堰を切ったように白状し始めた。
「政に関わってしまった身分不相応な学者が、理不尽にも左遷され、辺境へ送られる!今まで繰り返し見て来た書にも、こういう偉人がたくさんおった!誠を貫こうとした者、主上や皇帝を諫めようと物を申した者、そういう人間達が不幸にも中央を追われ、そして己の不運を嘆いて紡いだ詩歌の美しさ!!私も今同じような状況にあると思うと、もう嬉しくて楽しくて興奮して、詩の構想が次々湧いて仕方ないのだ!」
久々にこの人のこんな輝く笑顔を見たな、と宣来子は思い、思わず目を細めた。
なるほど、つまりは自分の置かれた現状に酔っていたというわけだ。
冷ややかに夫を見る妻の視線など何のその。道真はなおも続ける。
「讃岐から戻り、体がいくらか癒えて召し出されてからこちら、もうずっとまともに詩作する暇も取れなくてなぁ。書を読んだり、詩を作ったり、和歌を詠んだり、今までしなかったことをこうして体験してみたり、自然をゆっくり眺めたり、庭弄りをしたり……嗚呼私は本来こういう生活がしたかったのだなぁと改めて感じておるんだ」
うんうんと満足そうに頷く道真を見て、宣来子にある疑問が浮かんだ。
「昔、白楽天に憧れを抱いているのは、その詩に政を諫めようとする気概があるからだ、と言いましたよね。そして自分の詩も、そうでありたいと。その思いはどうなったのです」
まさか忘れたわけではあるまいと問うと、道真は、あああれかと呟く。
「阿衡の一件や、遣唐使の停止、国司の経験を活かした税制度への進言……学閥にも、あれこれ意見を言って来た。私は、私の持てる力で、届く範囲のことは変えようと動けた自負がある。実際に事態が動いたと言えるのかは分からないままにこちらへ来てしまったと思ったこともあったが、そういうものは往々にして効果がすぐには見えんものだと思うことにしたんだ。自分が“何かを成した者”だと言えるかどうかは、私が死んだ頃に分かるものだろうよ」
「………」
この半年、ずっと隣にいて、この人を見て来たつもりだったが、それは本当に“つもり”だけだったらしい。
あれこれと考えて、そしてこの考えに至っていたのだ、道真は。
その考えの収束の仕方も含め、最期には悟り、自分を納得させて消えて行った偉人達によく似ていると、宣来子は切なくなった。
やはり、何だかんだと大きな人だ、この人は。
「そうですか。それで道真は毎日活き活きとしていたのですね」
「そうとも」
大きく頷いた道真は、最初に問い掛けたのが自分であったことを思い出し、気を取り直してもう一度同じ質問を繰り返した。
「で?宣来子が楽しそうだったのは何故なんだ?」
「私は……今が一番、自分らしく居られていると思うから、でしょうか」
道真が語るほどの深い理由はないと、宣来子は目を伏せた。
「そうすると、今までは自分を偽っていたと?」
「そうまでは言いませんけれど、今まで背負っていた母親や妻という責務から随分と久しぶりに解放されて、弟達と駆け回っていたあの頃に戻ったような心持ちなんです。そう言えば男兄弟しかいなかったのもあって、母上や父上には男子のようだとよく言われていたなと思い出しました」
気恥ずかし気に、しかし昔を懐かしむような目で、宣来子は笑った。
道真は道真で、胸の内で一人得心していた。さっき宣来子が少女のように見えたのは、自分の思い過ごしではなかったのだ。自分と結婚し、妻や母という役割を持つ前の、闊達で純粋だった彼女を、自分は知らない。 
「……長いこと夫婦をしておっても、お互い口にしないことはきちんと分からんものだな」
「むしろ、何十年と一緒にいるから何でも伝わるだろう、と過信するようになったのでしょうね。 何でも知っているようで、実は何も知らないのかもしれません」
近いようで遠いと気づかされた二人の、わずか五寸ばかりの間を、潮風が通り抜けて行く。
心地良く影を落とす松の木が、ざあっと音を立てた。
「お前と一緒になってすぐの頃は、互いに深く知る必要はないと思っていた。かたちばかりの妹背には、そんなことは無用だと。 それが…いつからだろうなぁ、もっとよく知りたいと思って、しかしある程度まで行ったら、もうこれ以上知らないことはないと決めつけてしまった」
海風の中の声を拾い落さないよう、宣来子はじっと夫の声に耳を傾ける。
「何せ私が讃岐へ行っていた頃を除いて四六時中同じ邸で寝起きしておったんだ、顔を見ぬ日は殆どないし、毎日毎日同じようなことの繰り返しで、真新しいことなんぞ何もない。お互いの裸まで知っていて、これ以上のものなぞ逆立ちしたとて出て来んと思った」
つらつらと話す中で危うく素通りしそうになったが、とんでもないことまで口走っていたので宣来子はバシンと道真の背を叩いた。うっとか呻いて道真が前屈みになる。
「ひ、人がいないとは言えそんなことまで言う必要がありますか」
「今更恥じるようなことでもなかろうが……」
こういう反応は随分と久しぶりに見たなぁと思いつつ、道真は自分の背を摩る。昔から割合手の出る奴だと思っていたが、最近百姓仕事をしているからなのか都にいた時より力が強い気がする。
「……こういうのも、昔はよくしたな」
「え?」
「最初は全然表情の変わらないつまらん女だと思っていたが、存外感情豊かで、少し揶揄うところころ表情が変わるんで面白がって色々したものだなぁと思い出した」
そんなことすら忘れていた、と道真が呟く。
しみじみと言うにしては所々失礼だと思った宣来子はそっくりそのまま返してやることにする。
「私も、道真は仏頂面で無口な人だと思っておりましたが、口を開けば話がくどくど長く、感情の移り変わりも激しくて、見ていて飽きなかったことを思い出しましたよ。もう流石に慣れましたけど」
さらりと言ってのけた妻に、道真の口がぴくりと動く。
「お前は……一言えば十返しよってからに。今のはそういうのじゃないと何故分からん」
「そういうのじゃないのならどういうのなのですか?私には喧嘩を売られたようにしか思えませんでしたけど」
道真と目も合わせず、宣来子は竿を上げ下げする。何かが当たるような感覚はない。
「だから、もう知らないことはないと思っていたのにまだまだあるどころか、知っていることまで忘れていたと言ったんだ。 ……どうして宣来子を良いと思ったのか、それを思い出した」
最後の方は殆ど波音に掻き消されそうなほど小さな声だったが、この距離であれば流石に聞こえる。
「……そうですか」
努めて平坦に答えながら、あわや取り落としそうになった釣竿を握り直す。突然何を言い出すのだこの人は。
「良かった、お前が付いてきてくれて。本来なら許されるようなことではないが、こういう機でもなければまた宣来子と腰を据えて話すこともなかったろう。知らぬことがあるまま、お前への想いも忘れたままこちらへ来て、一人そういうことに遅れて気づいてそのまま離れ離れに死ぬところだった」
「………」
水平線の彼方を寂しそうに見つめながら言う道真の言葉に、宣来子は肝が冷えた。
何となく理解していたはずだった。何も言わなければ道真は僅かな共と都を去り、そして二度と帰って来ることはないと。もう顔を合わせることも、声を聞くことも、話をすることも叶わないのだろうと。そして遠く離れた地で死ぬのだろうと。
しかし、それをいざ夫の口から聞いた途端、その情景を鮮明に想像出来てしまった。
「宣来子?」
衣の脇を引っ張られる感覚がして目を遣ると、宣来子がそこをきゅっと掴んでいた。その意図を確かめようと顔を見るが、伏せられていて分からない。
「どうした」
「……私も、思い出したんです。どうしてあの時あなたに付いて行くことを方々に頼み込んだのか」
「それは、あれだろう。私の持病と生活が心配で、」
「それだけじゃないです」
ふるふると頭を振る。
「──怖かったんです。どうやっても、あの世でも探し出せぬような、遠く離れた場所で別々に死ぬことが。本当に恐ろしくて、堪らなかった……」
震える宣来子の手をそっと包むと、こんなに暖かい日なのに驚くほど冷え切っていた。
「道真が讃岐へ行っていた四年も辛かったけれど、あれはそれでも終わりがあると知っていたから耐えました。でも今度は事情が全く違います。咎人としての流罪です。許されて戻る見込みも立たず、きっとその前に寿命が尽きるのだろうと思ったら、それを受け入れることなんて私には到底出来ませんでした」
「宣来子……」
声を震わせる宣来子の背をとんとんと優しく叩きながら、道真は思う。
貧しいけれど満たされた日々につい忘れそうになるが、一つ道が違えば宣来子が言うような事態になっていた可能性は十分にあった。否、むしろその方が本来の展開であるとさえ言えよう。
近くにいると軽口ばかりだが、それがどれだけ有難く尊いことだったか、あの時痛いほど思い知ったはずだったのに。
「……今私がこの状況にあっても明るく在れるのは、お前のお陰だな。お前がいなかったら、今頃こんな気持ちにはなれなかった」
道真は、いつしか力の抜けていた宣来子の手を取り、それを柔らかく握った。宣来子がはっとして顔を上げる。
「今私達はこんなに近くにいる。手を伸ばせば届く。声も聞こえるし話も出来る。互いの知らなかったことをこれから知っていくことだって出来る」
な?と、いつになく優しく笑った道真を見て、宣来子も微笑んだ。
と、その時。
とぽんと軽い水音がして、手を取り合ったまま二人は海を振り向いた。目を凝らすと、竿が一本水の中に沈んでいくところだった。


「外で食べると乾飯も違うものだな」
「そうですね」
海の中に落ちてしまった竿は、比較的浅瀬だったお陰で何とか取り戻すことが出来た。それを陽の下で乾かしながら、二人は松の作った木陰で、丁度良い刻限だからと昼餉を摂ることにした。
「久しぶりに食べると、そんなに悪くもないな」
「ええ」
何気ない会話をしているようでいて、その実目を合わせられないでいる。というのも、ついさっきまであんなに大真面目な話をしてしまったせいで、何となく気まずいからだった。
こんなにこの人との会話に迷うことがあっただろうかと思いながら、宣来子は食事に集中しようとする。ぽりぽりぽりぽり。袋から飯を取り出しては口に入れる作業を繰り返す。
喉が渇いた、と思って竹筒に手を伸ばすと、同じ考えの夫と手が触れて思わず仰け反った。
「こ、これは私の竹筒ですっ。道真のはあっちです」
「すまん、そうだった」
いそいそと反対側の脇に置かれた筒に手を伸ばす道真を窺いながら、いい歳をして妙に意識している自分が恥ずかしくて堪らなくなる。ついこの間五十の算賀までしたのに、「四十にして惑わず」すらままならない。
「………」
こくりと水を煽って喉を潤す。一気に飲んでしまいたいくらいの心持ちだが、家に帰るまで水を汲む場所もないのでそれは我慢しなければならない。
筒から口を離し、ほうと息を吐く。
……そもそも、“もうそんなことは起こり得ないから”と随行と許してもらっているのに、こんなことでは事によっては何らかの刑に処されるだろう。気を引き締めなくては。
隣にいるのはただの道真、唐変木でクソ真面目の偏屈頑固男……と平静を取り戻すためになかなかに酷いことを唱えていると、「おい」と声が掛かる。
「え? はい」
「次は釣り場を変えるか」
「あ……ああ。ええ、そうですね。全然釣れませんでしたし、その方が良いでしょうね」
何だ釣りの話かと、悟られぬように胸を撫で下ろしながら宣来子が何とか答えれば、それに気づいたか気づかなかったか、道真はうんと頷いた。
「次はどの辺りにする」
「道真に任せます」
「さっきはあっちだこっちだと燥いでおったのにどうした。 良いぞ、お前が決めて」
そう言われれば今朝は自分も釣りが出来るからと気持ちがやたらと昂っていたが、そんなことを今蒸し返さないで欲しい。
竹筒を持ったまま黙りこくっていると、「宣来子」と急かされるので仕方なく釣り場を探して辺りを見回す。
「……じゃあ、あの辺りはどうでしょう。あの、向こうの岩場」
「お、良いじゃないか。何だか釣れそうだ」
「だと良いですけれど」
正直もう釣りどころではないというか、自分だけでも先に帰りたいような気分だ。何だか妙に疲れた、と立ち上がろうとした時、うっかりよろめいてしまった。あ、これは転ぶ──と覚悟をしたが、しかし体が倒れることはなかった。
「おっと、大丈夫か?」
折よく気づいた道真が、宣来子の手を引き寄せながら体勢を支えたからだった。
「す、すみません。油断しました」
「ふ、何だその可笑しな言い様は」
道真が愉快そうにくつくつと笑うのを見て、宣来子はどことなく居心地が悪い。
「あの、離してください。もう大丈夫ですから」
「ん? んー、そうさなぁ」
のらりくらりと言って、道真は宣来子の背から手を離すに留めた。
「……こちらの手は」
離してくれないのかと訴えると、にやにやと笑われる。何なんだ一体。
「今のお前は危なっかしいから、岩場に着くまではこれで参るとしようか」
「は?え? 冗談でしょう、つ、繋いだまま行くのですか!?」
宣来子が訊く間にも、道真は器用に片手で荷をまとめ始めている。乾飯と竹筒をしまい、竿と釣り道具一式を持てば準備が整った。
「む、早うせんか」
「な……なん……っ」
わなわなと震えているうちに今度は宣来子の分も片してしまうと、道真は意気揚々と歩き出した。慌てて置いていかれないように宣来子も足を動かす。
「ま、待ってください!駄目ですこんなの!」
「何が駄目なんだ?」
「何もかもですよっ」
必死に訴えても道真は何のその。本当に思い当たる節がないようで宣来子は辟易する。
「そもそも無実とは言え道真は罪人としてここにいるのですよ!?罪人に女子を宛がうことは許されないことです!それでも私はもうこのように婆だからと目を瞑ってもらっているのに、こんなことをして見つかりでもしたら……!」
宣来子の言葉に道真がようやく足を止めた。しかしその後に出たのは「それがどうした」であり、宣来子は愕然とした。
「ど、どうしたって……」
「こんなところに今更誰が監視に来ると言うんだ。目的は邪魔者をあの場から消すことで、自分の視界に入らなくなれば最早それで終わりなんだ。それはたまに訪ねて来たりもするが、見ているのは生きているのか死んでいるのかくらいのもの。そこまで神経質にならずとも良かろう」
「そんな……」
そんな、適当なことで良いのだろうか、と宣来子は閉口した。
そして妻が何も言い返さないのを良いことに、道真はどんどん進んでいく。そのうちに鼻歌さえ聴こえて来て、宣来子は眉を顰めた。
「……道真は、恥ずかしくないのですか」
「恥ずかしい?何がだ」
「爺婆とはいえ、こんな、外で手を繋いで歩くなど……京にいた頃なら絶対しなかったのに」
「だからこそだろう。もうどこを見ても知らぬ景色、知らぬ人、自分達を知らぬ者だけになったんだ。恥など掻いたところで意味もない。 老い先も短いし、せっかく離れ離れにならずに済んだのだからこの日々を楽しもうと思ってな」
「………」
早い話が“開き直った”ということのようだ。宣来子は思わず頭を押さえた。
なるほどそれで道真は照れるでもなく平気そうにしていたのか、自分ばかりが気にして嫌になる。
でも、と宣来子は思う。
元々、ここまでではないとは言え、この人と離れたくない、隣にいたいと望んだのは自分だ。であれば、夫や家族や門下達を不幸に追いやった中央に遠慮し続けて過ごすのも馬鹿らしい。人生はもう終わりに近づいている。最期くらい、のんびりと釣りでもしながらこの人と穏やかに過ごすのも良いかもしれない。
そんな結論に至った途端、ふっと肩の力が抜けた。どうやら自分でも気づかぬうちに色々と背負い込んでいたようだった。
「……そうですね、こうなったら楽しんだ方が良いですよね」
そう思い直した宣来子は、最早引き摺られるようだった身を起こし、道真の隣にしっかりと並んで歩き始めた。
「次こそは釣ってみせます!」
「ふん、私が先に釣るさ」
「ならば競争ですね」
「よし、その勝負買ったぞ」
少し夫婦のあり様を変えた二人の賑やかな声が、浜辺に響き渡っていた。

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