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四年四月の頃

繰り返し、繰り返し、同じ鳴き声で鳥が囀る。
あまり聞き慣れないその声に、私は部屋から出て庭の木に居所を探すが、降り注ぐ陽射しに目眩がして、それは叶わなかった。
長い冬が終わり、ようやく春の花々が咲いたかと思えばゆっくり楽しむ間もなく散り行き、少しずつ芽吹いた若葉もいつしか青々と繁って、夏の盛りを待ち望んでいるようだった。季節はあっという間に巡り、繰り返す。例え私の傍にあなたがいなかろうと、そんなことは無関係に時は流れていく。


喉を潤そうと水を求めて厨へ行くと、女房が鍋の前であくせく動いていた。声を掛ければ、唐菓子を作っていたのだという。
「奥方様達へお出ししようと思っていたんです。ちょうど小腹も空く頃ですし」
「そう。それは楽しみ」
この女房は食べることが好きで、また料理も上手い。鍋の中の索餅をちらりと見つつ、私は椀へ水を注ぎ入れた。


どうせいないのだからと、近頃私は好き勝手夫の書斎を使っている。
何せここには書という書が揃っているし、然程広くもないから欲しいものにはすぐ手が届く。墨も筆も紙もあり、引き籠るには打って付けだった。
厨から持って来た水を少しずつ飲みながら、杜詩に目を落とす。
「……巴蜀とは、どれだけ険しい場所なのかしら」
聳え立つ山々、足場も架けられないような過酷な蜀道の険。
それらを想像しながら、段々に思考が移ろっていく。
讃岐は……ここよりも暖かいのだろうか。
視界には確かに詩が入っているはずなのに、その内容が全く頭に入ってこない。気づくと遠い地のことばかり考えている。
寂しいわけではない。
あなたがいると、書斎の片づけが滞るから、いないと毎日掃除が出来て良い。
急に短札を作ってくれと言われることもないし、まだ乾いていない単を指差して明日はどうしてもあれが着たいと無茶を言われて腹を立てることもない。
だから、寂しいわけではない。
けれど、ああ良かった清々したなんて、そんなふうにも言えない。
ばさり。
手から書物が滑り落ちて、私は我に返った。
「………」
まだあと1年以上ある。
気を確かに持たなければ。
今この邸の主は私なのだから、これしきのことで調子を崩すわけにはいかない。そうだ、これしきのことで──。
「奥方様、おられますか」
控えめに戸を叩く音がして、私は顔を上げた。高羽の声だ。
「ええ、今出ます」
そっと戸を引くと、高羽が文を差し出していた。
「殿からの文です」
「………」
何だか自分の心が見透かされたようで、動揺してしまう。
「奥方様?」
「ああ…すみません。ありがとう」
文を受け取ると、そそくさと高羽は立ち去った。本当によく出来た者達だ。
書斎に戻り、文を開く。
香の一つも焚き染めないその紙からはしかし、仄かに潮の香りがした。


「衍子」
御簾越しに、娘の部屋へ呼びかけると、すぐさま衍子と阿視が顔を出した。
「あら、阿視もいたんですか」
「姉上と偏継をしていました」
「そう。 母はこれから島田へ行ってきます。松瀬が今唐菓子を作ってくれているから、それを食べて待っていなさいね」
「やった、唐菓子!」
「早く食べたいなぁ」
途端にはしゃぎ始めた子供達を少し宥めてから、私は生家への手土産として出来立ての唐菓子と、布を持って邸を出た。


突然の娘の来訪にも、母はあまり驚くことなく嬉しそうに出迎えてくれた。
「珍しい。いつもは前もって連絡をくれるのに。今日はどうしたの?」
「いえ、女房が唐菓子を拵えたので、母上と一緒に食べたくなったんです」
「……そう」
察しの良い母には、全てお見通しなのだろう、唐菓子が単なるきっかけに過ぎないことなど。
それでも何も訊かずに迎えてくれることが、私にはとてもありがたかった。
「父上から便りはありましたか?」
「最近は仕事が立て込んでいるみたいでめっきり少ないわ。あまり体調も優れないみたい。もう歳ね」
早速皿へ載せた菓子を勧めながら、母が言った。
「母上、私が持って来たのですから、まずは母上が召し上がってください」
「あ、そう? ふふ、子供に先に食べさせる癖、なかなか抜けないのよね」
楽し気に笑った後、母が菓子を口に入れたのを見て、私もそれに倣った。
「美味しいわ~。菅原には料理上手の女房がいるのねぇ」
「はい。本人も作るのが好きだそうで、食事に関しては任せています」
「そうなの」
それから母と二人、菓子を食べながらしばらく近況を話した。
幼い頃から弟達がいて遊び相手に困らなかった私には、友人もあまりおらず、同性で話が出来るのは母くらいのものだった。母は親であり、何でも話せる友でもあった。
「宣来子、その包みはなぁに?」
菓子を食べ終え、人心地ついたところで、ふと母が私の傍らの包みに気づいて訊ねた。
「生絹を、ここで縫おうと思って持って来たんです」
「暖かくなったと思ったらすぐに暑くなるものね。子供達のもの?それとも自分の?」
「いえ。道真に送るんです」


随分と久し振りに届いたその文には、衣更をするから夏の衣を送って欲しいと書かれていた。
何とあちらは夏も間近らしい。もう衣更を考えるほどなのかと驚いた。
それにしてもあちらへ発つ時に着替えは沢山持たせたし、去年も一昨年も足りない分は便りが来る度に何度か送ったはずで、夏の衣もあるはずなのだが。
そう母に話すと、母は笑い声を漏らした。
「宣来子ったら、いつも私より勘が働くのに、今回はてんで駄目ねぇ」
「え……」
「待っているのよ、あなたが衣を送ってくれるまで」
「………」
言っている意味が分からず、私が眉根を寄せると、見かねて母が更に続きを口にする。
「夏以外は汗もあまり掻かないし、そんなに早く生地も駄目にならないけれど、夏は割合早く黄ばみが出たりするわよね」
「……はい」
「まぁ、普通1年くらいならそんなに気にしないわ。 でも、宣来子は毎年替えてあげていたんじゃない?」
「あ……」
あの人は、少し神経質で過敏なところがあって、だから何となく夏は新しいものを下ろしていた。洗濯も頻繁にした。
いつの間にかそれが習慣化した夫は、私の生絹の衣が届くまで、衣更せずにいる……のか。
「やっと分かった?」
「はい。……はい」
嗚呼そうか。あの人だって、私がいないと駄目なのか。
気づいてしまえば、もう堪えることなど出来なかった。
「……っ、すぐ…送ら、ないと……わたし……っ」
「そうね、早くしないと暑くて道真さん茹ってしまうわねぇ」
思わず嗚咽を漏らす私の背を、母は優しく撫でてくれたのだった。


寂しくなんてないと、今まで自分に言い聞かせて来た。
そんな弱音は吐いてはいけないと、ずっと自分を鼓舞して来た。
それこそが、正しい妻の在り方なのだと。
でも、それが世間一般的に正しいのだとしても、私には、それは耐え難かった。ただそれだけのこと。
そんな自分を認めたくなくて、目を背けて来たけれど、やはり認めざるを得ない。
ごめんなさい、やっぱりあなたがいない邸は、静かでつまらないんです。
一緒に居る時には、そんなこと、微塵も思わなかったのに。
だけど、簡単に認めてしまうのは癪なので、あなたが音を上げるまで、私からは決して言いません。
その代わりに、必ずあなたが必要とするものは届けましょう。
そして帰って来る時に、あまりの荷の多さにうんざりすれば良いんです。

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