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​大学の由来

恐らく礼記の王制にある「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮」から大学という名称は生まれている。そしてそもそも大学というような学校はいつから、誰が作ったんだというと"五帝の舜"である、と。

 

舜が作ったのは「上庠」で、貴族子弟のためのものであり、対して庶民には「下庠」を作った。

周王朝には上庠が「辟雍」という名称に変わり、下庠は「小学」となった。辟雍は「四方に水を雍え、全体の形が辟のようである」建物であり、周では辟雍の南に「成均」、有虞氏や虞氏の制度では北に「上庠」、夏では東に「東序」、殷では西に「瞽宗」を置き、それらの学校を五学(太学)と言うのではないかと考える説がある。

この「太学」こそ「大学」の大元。

なお「太」と「大」はあまり区別はされておらず当時は太学とも大学とも呼んでいた。

※現在日本では「太」は太いくらいしか意味を持たないと思われているが、"大"西洋より大きいから"太"平洋のように、太は大より大きいのであり、中国では凄い、甚だしい、非常に大きいという意味で使われる。

 

太学は漢代に入って首都に所在する高等教育機関の正式名称となり、前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのが始まりとされる。この頃に制度自体も整い、学生達は地方から選抜され、試験に応じて官に任用された。

その実態は地方豪族の子弟を推挙するに過ぎず、その後学科試験による官吏登用制度「科挙」が導入されることとなる。

 

遡って、西晋で「国子学」というものが生まれ、唐代には「国子監」の下に国子学・太学・四門学・律学・書学・算学といった六学が置かれる形となった。

六学卒業者には科挙の最終試験「省試(唐代には殿試がなく、会試がこう呼ばれる)」の受験資格が与えられる。阿部仲麻呂は太学で学んでおり、多分ここから科挙に及第したのではないかと思う。

明代には「国子監」に一本化されて、それが清代まで続いた。

 

【余談】

郷試・会試・殿試の成績トップをそれぞれ解元・会元・状元と言い、全て首席だった者を三元と呼ぶ。麻雀の役満である大三元はここから。

また、

・「久旱逢甘霖」長い干天に慈雨あり

・「他郷遇故知」別の場所での昔の友人との再会

・「洞房花燭夜」新婚初夜

・「金榜題名時」科挙の合格

を「四喜」と言い、大四喜と小四喜の総称である「四喜和」もこれに由来する。

 

太学の正統学問は「儒教」であった。そもそも太学が礼記に出典があるものなのだから当然と言えるかもしれない。

だからこそ大学寮の唯一の職掌には「釈奠」があるのであり、大学寮の本科は明経道すなわち儒学なのであろう。

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