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​梨香

どうして、こういう日に限って呼びつけられるのだろう。再三今日はどんな予定も入れてくれるなと言っていたのに。
土煙を立てながら大路を駆け抜け、頭で懸命に謝罪の言葉を考える。けれど焦りでまともなことは浮かばず、代わりに僕は腕を振り足を動かした。
どうか、どうか帰っていませんように。そこに彼女がいますように。

その願いは果たして、存外あっさりと叶っていた。
「お疲れ様~」
軽く言って手を振る彼女に胸を撫で下ろす。
「ごめっ、先生が、この間貸してた本を、急に返せって…はぁ、はぁ」
「あーはいはいいつものね。是善先生も写本が何冊もあるのに、人が良いあなたにばかり返すように言うんだから酷いわよね」
呼吸がなかなか整わない僕の額を、彼女──有香子さんは笑って布で拭ってくれた。
「待たせてしまった…よね。本当にごめん」
「良いのよ。理由も何となく分かっていたし、忠臣さんがわざと遅れるなんてことはしないもの」
懐に布をしまうと、有香子さんはさぁ行きましょうと歩き出した。

僕らは恋人ではあったが、その先に進めていないくらいの関係で、好意は伝えているけれど、自分に自信がなくて求婚までは出来ていない、という段階にあった。
僕はまだ芽の出ない学生だったから、せめて省試に及第し、文章生になれたらいくらか胸を張って求婚出来るだろうという考えがあったわけだが、そうのんびりもしていられないなと、明るい彼女の隣を歩きながら、密かに焦っているのだった。

「今日は風が気持ち良いわね~。空も少し高くなって、いよいよ秋ね」
入道雲から鱗雲へと移り変わった空を見上げ、有香子さんが言う。
京の中心から少し外れた所にある林や寺社を歩くのが、お決まりの過ごし方。彼女の邸へ通うことに自信のない僕と、外を歩くのが好きな有香子さんにはうってつけだった。
「秋は紅葉も綺麗で良いけど、すぐ冬になってしまうから少し物悲しいな」
「あら、忠臣さんは冬は嫌い?」
「嫌いというわけではないけど……寒くなったらこうして君と外で過ごすのが難しくなるし」
「そしたらうちに来れば良いじゃない」
「それが出来ないんだって……」
「もう。いい加減来れば良いのに。夜が無理だっていうなら昼間で良いわよ?」
「随分軽く言ってくれるね。僕が通っていることが知れ渡って困るのは君なんだよ?」
「どうして?何が困るの?」
本当に何が困るのか分からないというふうに、きょとんと有香子さんが訊ねる。
「……色々と、支障が出るだろう。僕なんかじゃ、君の価値を下げてしまうというか。もっと良い人と出会う機会を逃してしまうかもしれない」
もちろん、有香子さんとは一緒になりたいと思っている。けれど、このまま僕が何者にもなれなかった時、僕はそれでも彼女に求婚出来る自信がない。そうしたら彼女は僕でない誰かの妻になるだろう。その時、彼女の幸せに僕が邪魔をしてしまうのは嫌だった。だから今まで公には会えなかったのだ。
「………。もっと良い人って?」
「え?」
「もう一度聞くわ。もっと良い人って!?」
「いだだだだっ」
物凄い剣幕で頬を抓られ、僕は叫び声を上げる。が、有香子さんはやめるどころかもっと力を入れる。
「私も見くびられたものねぇ?この期に及んであなた以外を選ぶと本気で思ってるの!?私は島田忠臣が好きだって言ってるでしょう!あなたも私のことが好きなんでしょう!?必要以上に自分の価値を下げないのっ!」
最後にぎゅーーっと抓った後、パッと手を離した。
「はい……」
頬を押さえながら情けない返事をする僕に、有香子さんは息を吐いた。
「……最近、忠臣さん何だか焦ってない?」
「へ?」
「隠していたって分かるのよ、そういうの。隣を歩いていても、心ここに在らずというか、違うこと考えてるでしょう」
じっと真剣に見つめられると、この人に隠し事は出来ないなと思った。観念して、僕は有香子さんに向き直り、ずっと決意していたことを口にする。
「──省試に及第して、文章生になれたら、一緒になって欲しいと思ってる」
ざあと風が吹き、木立がざわめいた。
緊張で吹き出す汗が、風で引いていく。
有香子さんの長い髪が大きく靡いた。
「でも、すぐにとは行かないと思う。頑張っているけど、こればっかりは難しいんだ。それでも、どうしても文章生になった僕で、君に求婚をしたい。今の給料もない学生のままじゃ、親御さんにも安心してもらえないし、きっと、今のこの自信のなさは、文章生になれたら少しは消えるはずだから」
「………」
「僕はね、有香子さんは僕には勿体ない人だって今でも思ってる。こんなに明るくて、日の光のような君を、僕の影に入れてしまって良いのかって悩んだ時もあった。それでもやっぱり、僕には有香子さんの光が必要で、その光を少しでも失わせないためには、僕がもっと自分に自信を持てなきゃいけないんだ。だから文章生になるという目標を自分に課したけど、僕が及第出来ないでいる間に、君が誰かのものになってしまうんじゃないかって、そう思って焦ってた……」
「そういう、ことだったの」
呟く有香子さんに頷く。
「……文章生になってから求婚したいのは、僕のつまらない拘りで、我が儘だ。だからその間待っていて欲しいなんて、僕に言う資格はない。大体文章生になれるのはもっとずっと先かもしれない。もしかしたら一生なれないかもしれない。……僕は、僕が幸せになる以上に、君に幸せになって欲しいんだ。君が幸せになろうとする時、僕はその邪魔にはなりたくないんだよ……」
一気に心に留めていた思いを吐露すると、有香子さんはふっと笑った。
「じゃあ何で泣くのよ」
「え……」
言われて、自分が泣いていたことに初めて気づいた。
「私が忠臣さん以外の誰かと結婚してしまうのが嫌だから泣いてるんでしょう?違う?」
「違……わない」
「ほら、そうでしょう。そんなに嫌なら言わなきゃ良いのに。全く、仕方ない人ね」
今度こそ有香子さんは明るく笑って、少し先へ歩くと、くるりと振り返った。
「あなたの決意はよく分かったわ。だから、私にも決意をさせてくれる?」
「どういう……」
困惑する僕に構わず、有香子さんははっきりと告げた。
「──待つわ。あなたが文章生になれるまで。いいえ、あなたが自分に自信を持てるまで、いつまでだって待つ。忠臣さんが待てと言えないのなら、私が勝手に待たせてもらいます」
「え、ちょ……」
「忠臣さんが自分一人で私に相談せず決めたんだから、私だって一人で決めるわ。文句は言わせないわよ」
勝ち気に言い切ると、そのまま歩を進めるので、慌てて付いていく。
「大体、私の幸せを決めつけるのはどうなの?私の幸せが何なのか、分かって言ってる?」
「いや、それは……」
「私の幸せは、忠臣さんの隣にいることなの!要するにあなたと同じ!他の人じゃ替えになんかならないの!分かった!?」
「………」
「分・か・っ・た!?」
「う、うん。分かったよ」
こんなに怖い彼女を見たのは初めてかもしれないと思った。と同時に、大切に思っていたはずの彼女の気持ちを大切に出来ていなかったんだなと、僕はしみじみ反省した。

そんなことが先日あって、僕はようやく有香子さんの邸へ行く決心をした。と言っても長居はしないつもりだし、夜の間には帰る予定だ。それは自分の目標が未達成なことや、彼女の幸せ云々とは関係なく、単に自分が意気地なしなだけである。
この後彼女の邸へ行くということで頭がいっぱいの僕は、端から見ても分かりやすくぼーっとしていたんだろう。都堂院で荀子の講義を聴き終わった後、ぽんと肩を叩かれた。
「兄上、どうしました?また何か電波受信してます?」
「してないよ……というか電波の受信って何だよ……」
「なら良かった。朝からぼーっとしてますけど、具合でも悪いですか?」
「いいや。具合が悪いわけでもないよ。ただちょっと、緊張してるだけ」
文机の書物をまとめ、席を立つ。一旦西曹へと戻るため、弟の良臣と並んで歩く。
「緊張というと?」
「この後、有香子さんの邸へ行くんだ」
「わっ、ついに前進ですか!」
「ほんの少しだけどね」
小さく拍手する良臣に、曖昧に笑って答える。
「前進は前進ですよ!でもあんなにぐずぐず言ってたのにどういう心境の変化ですか?」
「そんなに僕ぐずぐず言ってたの……」
「言ってましたよ~、今の僕じゃとても求婚なんか出来ないとか、及第するまでに誰かに奪られるに決まってるとか。私がどれだけそれに付き合わされたことか!良い紙でも奢ってもらわなきゃ割に合わないですよ」
「分かったよ、今度何かで手に入ったら良臣にあげるって」
「やったー!言ってみるもんだなぁ」
「調子良いよね、本当に」
弟故なのか、良臣だからこそなのか、この弟は一つ一つ悩む僕とは違い、何かと要領が良いのだった。
「……心境の変化というか、もう黙ってられなくて言っちゃったんだよ、洗いざらい全部。今まで良臣に聞いてもらってたようなことを有香子さんに打ち明けたら、僕が文章生になるまで待つって言ってくれたんだ」
あの時のことを思い出して、少し照れながら言うと、良臣は感嘆の声を漏らした。
「格好良いなぁ有香子殿。兄上が文章生になれるかなんて分からないのに」
「さらっと辛辣なこと言うなよ……」
「冗談ですって!最近旬試の成績も良いし、文月の年終試も良い出来だったのでしょう?省試も大丈夫だと思いますよ」
「だと良いけどね」
「弟の言うことなんだからもっと素直に受け取ってくださいよ。大体そんなに弱気じゃ及第するものもしませんよ?」
「うん、それはそうかもしれない」
「そうなんですって!ほらっ、有香子殿に求婚するんでしょうが、もっと気合い入れて!次の講義も張り切って参りましょう!おー!」
「お、お~…!」
腕を振り上げる良臣に続いて、ぎこちなく声を上げ、僕らは曹司の中へと入った。

良臣から見て、僕の様子がおかしく見えたのには、もう一つ理由があった。
夢を見たのだ。
草原に、有香子さんが立っていて、その足下に二人、そして有香子さんが抱きかかえるもう一人、合わせて三人の子がいた。
遅いわよーと有香子さんが笑い、子供達が父上早くーと呼ぶ。
ただ、それだけの夢。
それでも、日中僕の頭からあの光景がずっと離れなかった。
あの子供達はきっと、僕らの子なんだろう。あんなに幸せで、暖かい毎日が、もうすぐそこにあるのだと教えてくれているようだった。

会ったら何を話そうかとか、女性の邸に初めて行くことへの不安とか、そういうことを考えなくてはいけないのに、僕は大路を行く道すがらあの夢のことばかりを繰り返し考えていた。
西曹を出る時に、良臣から「有香子殿に」と渡された物は、中身が何だか分からないが、妙に重く感じた。
今朝は少し雨が降っていたから、地面は湿っていてあまり音がしない。空はもう数刻したら泣き出しそうな色をしていた。風が少し強い。嵐が来るのかもしれなかった。

どぎまぎしながら何とか有香子さんの部屋へ辿り着いた。それまで考え事をしていてあまり構えていなかった所為か、いくらか緊張せずに済んだ。
「ちゃんと約束通り来てくれて嬉しい。いよいよになったらやっぱり行かないとか言い出すかと思ってたわ」
「約束したんだから、ちゃんと守るよ……」
「ええ、それでこそ私の好きな忠臣さんだわ」
有香子さんはにこにこといつも以上に機嫌が良さそうに見えた。思い上がりでなければ、多分僕が来たことが本当に嬉しいんだろう。反対に僕は落ち着かず笑う余裕もないのだが。
「あら、それはなに?」
有香子さんが、良臣に持たされた荷を指差す。
「僕にも分からないんだ。良臣が持たせてくれたんだけど」
言いながら包みを開くと、中から薄緑の水菓子が出て来た。
「まぁ、梨っ」
「そう言えば時期だね」
「ねぇ、これ早速いただいても良い?唐菓子も用意していたんだけど、これの方が良いと思って」
「うん良いよ。僕も食べたいし」
答えると、有香子さんは少し待っててと言い残し、部屋を出ていった。
「………」
さて、一人残されてしまうと、有香子さんと会話することで解け始めていた緊張がまたぶり返してきた。
改めて考えなくともここは有香子さんの部屋で、つまりは女性の部屋なのだ。そんなところは自分の母親の部屋でも殆ど入ったことはないわけで、衣桁に掛けられた背子であったり、隅に置かれた琵琶だとか、縫いかけの衣…そんな一つ一つにどきどきしてしまう。何だか良い香りもする。こんなところで一人待つなんて!
まるで拷問のようだと、僕は頭を抱えた。有香子さんがいないのに、彼女の存在をこれでもかと感じてしまう。
何か、気を紛らわせなければ。そうだ詩だ!詩作をすれば良いんだ!
「梨…梨花、りか……李下?は、古楽府の君子行だっけ。瓜田不納履、李下不正冠……って、いつの間にか遠退いてるし。違う違う、だから梨だってば。梨香……うーん」
気を逸らそうと考え込むが、集中出来ていないのが自分でよく分かる。
当然だ。こんな状況で悠々と詩作出来る人間なんているはずもない。いるのかもしれないが、少なくとも僕には無理だ。
大きく息を吐き出し、しばし目を瞑って考え、僕は部屋を出た。

「わ、驚いた。何で庭にいるのよ……?」
梨を載せた折敷を手に戻って来た有香子さんにそう言われた僕は、弱々しく苦笑した。
「に、庭の木がね、立派だなぁと思って。部屋から見てて、そう思って……」
こんな間抜けた言い訳が彼女に通用するはずもなく。
「……さては居た堪れないから外へ出たんでしょう」
「ごめん……」
言い当てられた僕はもう謝るしかなかった。
「全く、まさかこんな早々に外へ出てしまうなんて。まぁ忠臣さんらしいと言えばそうだけれど。 ほら、梨を切って来たから中で食べましょうよ」
「う、うん」
再び彼女の部屋へ入り、綺麗に剥かれた梨を口に入れると、淡い甘みが口に広がった。
「今年のは瑞々しいのね。こんな良い梨、良臣さんはどこで手に入れたのかしら」
「頂き物だって言ってたよ。良臣は僕と違って愛想が良いし要領も良いから交友関係が広いんだ」
何気なく答えれば、有香子さんにじっとりとした視線を送られた。
「また忠臣さんはそうやって卑屈になる」
「卑屈というか、本当のことだし。友人が少ないのも顔が狭いのも事実だよ」
そう言ってもう一切れ梨を口に運ぶ。うん、少し酸っぱいけど程良い酸味だ。
「……鏡の向こうの自分と友人になりたいとか、来る友人もいないけど庭を整えておこうとか、確かに忠臣さんの詩ってそういうのが多いけど、本当~に友人が少ないの?」
身を乗り出して訊いてくる有香子さんに、僕は仰け反りつつ言う。
「僕が人付き合いがあんまり得意じゃないのは有香子さんだってよく知ってるでしょ。そんなところで嘘を書いたってすぐバレるんだから、わざわざ偽らないよ」
「…それもそうね、多少差はあっても、あまりにもかけ離れていれば都堂院で言われてしまうものね」
納得した有香子さんは身を引き、それから額を押さえた。
「本当に分かり合える人とだけ付き合えれば良いけれど、そうも行かないし、これから何かあった時に助けが少ないかもしれないのは心配だわ……」
「どうして有香子さんがそんなに心配するの?」
純粋に疑問に思って聞き返すと、有香子さんが勢い良く顔を上げた。
「心配するに決まってるじゃない!私はゆくゆくはあなたの妻になるのよ?夫になる人の行く末を案じるのは当然でしょう!?」
ごくり。僕は口に残っていた、まだあまり噛み砕けていない梨を一気に飲み込んだ。
完全に良くないことを言ってしまった。
ついこの間、自分から「一緒になりたいと思っている」と言ったばかりなのに、まるで彼女が自分の人生に無関係な人かのような物言いをしてしまった。こんなの怒るに決まっている。
「ごめん、有香子さん。無神経なこと言った」
すぐさまそう謝ると、小さな声でぽつりぽつりと、有香子さんは言葉を零した。
「………。この前忠臣さんが言ってくれたこと、とても嬉しかったの。ああようやく私は、あなたにそこまで想ってもらえるようになったんだなって思って。今日もやっと部屋へ来てくれたし、私は『あと一息』なんだと思ってた」
「うん……」
ぎゅっと裳を掴む彼女の手が震えているのが目に入る。
「だけど忠臣さんは、今みたいな言葉がまず出て来るということは、まだ心が伴ってないんだと思うのよ。私達が一緒になるってことが、どういうことか明確に想像出来てないというか」
「そう、だね。有香子さんの言う通りだと思う。ごめん」
有香子さんははっきり言わないけれど、あれだけ真剣に言ったくせに蓋を開けてみれば中身のない上辺だけの言葉だったことを知って、傷ついているのだ。そして傷つけたのは紛れもなく僕だ。
そのうちに彼女が泣き出すのだろうと思うと、心がキリキリと痛んだ。やっぱり僕は、彼女を幸せには出来ないのだ。
しかし、僕のそんな思いに反して、有香子さんは「だから」と続けた。
「二人でもう少し具体的に、将来のことを考えたらどうかしら」
「………え?」
あまりにも斜め上の言葉が飛び込んで来て、何を言えば良いか咄嗟に分からず呆気に取られた僕を横目に、彼女はその先を口にする。
「だってそうでしょう?夫婦になる意識が芽生えていないから駄目なんじゃなくて、芽生えさせれば良いだけだわ。どちらにしてもお互いの考えは早いうちに擦り合わせておいた方が良いし」
彼女の声は、何故か弾むように明るい。自分勝手だけれど、僕はそのことに安堵した。
良かった、また泣かせてしまわなくて。
「忠臣さんのことだから、文章生試の及第はずっと先のことだとか思っているんでしょうけど、……こんな言い方は不適切かもしれないけど、すぐにあっさり受かってしまう可能性だってあるじゃない」
「流石にないとは思うけど、……まぁ、全くないわけではない、ね」
「でしょう?そうすると、この間の言葉通り、及第したら私に求婚するじゃない?」
「う、うん」
「じゃあその後どうするの、ということよ、私達が考えておくべきは」
彼女に言われて、今更どれだけ自分が考えなしだったのかが分かった。
確かに、その先のことは何も考えていなかった。
「分かった。落ち着いて考えられるうちに、しっかり色々決めておいた方が良いね」
「そういうことっ」
満足げに笑った有香子さんは、パンっと一度手を叩いた。
「それじゃ、私の今のところの考えを話しておくわよ」
「うん」
「まずはとにかく両家の了承や挨拶ね。まぁある程度決まりがあるものだから婚儀は滞りなく済ませられると思うの。問題はその後の生活の方で、どちらの家に住むか、だけど……」
「一般的には僕が有香子さんの家に住むものだけど、たまに例外もあるよね。正直最後はどちらに余裕があるかみたいな話になるかなぁ」
妻の家に夫が住むのが通例ではあるが、妻の親は家を出なければならないわけで、つまり他に行く宛があるか、邸を建てるか、ということになる。それが難しいのであれば例外的に妻が夫の家に住むこともあるし、どちらも厳しければ準備が整うまで親との同居ということもあるが、それもまたその広さが確保できる方ということになるのだ。
「家格もそう変わらないしどちらも厳しいのは同じよね。こればかりはその時その時で考えるしかなさそうだわ」
「だね」
有長や良臣がどうするか、というのも考えた方が良いかなぁ、などと思考を巡らせていると、つんつんと控えめに脇をつつかれた。
「ん、どうしたの?」
「……今当たり前に『一緒に住む』って言ったけど、忠臣さん、通いじゃなくて良いの……?」
「通い……?どうして?」
予想だにしなかった言葉にそう訊き返せば、有香子さんは躊躇いがちに答えた。
「……その、今は少なくとも忠臣さんには私しかいないって信じているけど、この先別の人もってなった時に、不便かな、とか……わ、私が、いやなの……」
今にも消え入りそうなその声は、普段の快活な彼女の印象とは全く異なっていた。
……思えば、今までこの類の話は一度も僕らの間で出たことがない。だから、有香子さんが不安に思うのも当然のことと言えた。
「大丈夫。これまでもこの先も、僕には有香子さんだけだよ。…何て言うと、何だかクサい台詞みたいだけど、僕なんかを好きになってくれるのは後にも先にも君くらいだよなぁと思うし、むしろ有香子さんと思いが通じ合ったのも奇跡みたいなものというか。だから君が変に気を揉む必要はないよ」
へらりと笑ってみせると、有香子さんは何も言わずに僕の方へ身を寄せた。
「……嬉しいけど、やっぱり忠臣さん卑屈よ」
「そこは許してよ。 とにかく僕は、有香子さんと一緒に暮らしたいし、有香子さんも同じ気持ち。それで良いじゃない」
「……。そうね」
呟くように言った有香子さんの背をとんとんと叩きながら問い掛ける。
「家が決まって、あとはどうするの?」
「……家人も確かに何人かは必要だけど、私、家のことは殆ど全部出来るの。だから、洗濯も掃除も料理も裁縫も、みんな自分でやりたいわ」
「え、それ全部を?流石に無理じゃないかな……」
遠慮がちに返せば、じろりと睨まれた。
「忠臣さん、私のこと疑ってるでしょう。嘘じゃないわよ、母に仕込まれたの」
曰く、何かあった時に何も自分で出来ないようではいけない、と言われて育ったそうだ。
「忠臣さんのものもそうだけど、私ね、自分の子供はちゃんと自分で育てたいの」
「……こ、ども」
何気なく出て来たその言葉に呼応して、僕の脳裏に今朝の夢の光景が一気に甦った。
しかし、僕の反応がそんな理由からだとは思わない有香子さんは、少し怪訝な顔をした。
「そう。忠臣さんと、私の子供。 忠臣さん、もしかして子供は好きじゃない?」
「……ううん。そんなことないよ」
「…そう? あのね、私、何人子供が欲しいかって考えたことがあるんだけど──」
「──三人」
「え?」
「三人でしょう?違う?」
「そう、だけど……」
「……やっぱり」
僕の様子をいよいよ怪しく思った有香子さんに、身を起こして「どうして分かったの?」と訊かれ、僕は昨日の夢の話をすることにした。
「実は、昨日夢を見たんだよ」
「夢?」
「うん。 草原にね、有香子さんが立ってて、その足下に二人、それから有香子さんが抱きかかえるもう一人、合わせて三人、子がいたんだ」
「………」
「遅いわよーって有香子さんが笑いながら言って、子供達が父上早くーって僕を呼ぶんだ。ただそれだけの夢なんだけど、でも今日はずっとそれが頭から離れなくて、講義中もぼーっとしてた。多分、あの子供達は僕らの子なんだろうなって、そう思った」
少し照れながら話し終え、有香子さんの顔を見れば、何故かその大きな目が涙で濡れていた。
「えっ、ゆかこさ、えぇっ、大丈夫っ?どうしたの!?」
「……っ、ごめんなさい、何か、聞いてるうちに涙が出てきちゃって……何でかしら……?」
泣きながら笑って、零れた涙を指で拭う。一つ息を吐いてから、有香子さんは言った。
「きっと、嬉しかったの。あと、少し羨ましいって思っちゃった。私より先に子供達に会ったなんてズルいわよ」
「い、いや、顔とか全然見えなかったし……会ったって言えるのかなぁ」
「それでも、見たんでしょ。……早く会いたいわ」
その瞬間、僕は今朝の夢の意味がようやく分かった。
ああそうか、父上早くって、そういうことか。早く私達に出会ってと、そう言っていたんだ。
「……ねぇ有香子さん」
「なぁに?」
「僕らの家の庭には桜の木を植えよう」
「桜……って、私、ちゃんと見たことないわ」
「梅は唐からやって来たものだけど、桜は昔から日本に自生していたんだよ。 紅梅よりずっと淡い紅色で、かと言って白梅のように真っ白でもなくて、とても綺麗な花が咲くんだ」
「そうなの……素敵ね」
僕の言葉から桜の花を想像したらしい有香子さんが、夢心地でそう呟いた。
「ただ、梅と違って凄く桜は儚い花でね、風で簡単に散ってしまうんだよ。だから、咲いたと思ったらすぐ終わってしまうんだ」
「──それでも、忠臣さんはその桜が好きなのね?」
頷くと、まるで桜の花のように、有香子さんが咲った。
「君と、これから生まれて来る子供達と、みんなで毎年桜が見られたらなって、今思ったんだ」
「それじゃあ、必ず桜の木を植えましょう」
「うん」
やがて来る“春”を思い、僕らは二人、そっと身を寄せた。

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