櫻
「良臣ー、出掛けてくるねー」
曹司の奥へ呼びかけると、それまで文机に向かっていた良臣が顔を上げ、はーいと返事した。その後立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「どちらへ?」
「滋野殿の邸へ書を返してくるよ」
「ああ。書蔵にあった白氏文集の一部が読めなくなってて、別の写しを見せてもらったんでしたっけ」
「そうそう。おかげで虫食いの部分が分かってスッキリしたよ」
「毎年虫干ししているのに、何でですかねぇ」
「さあねぇ。とにかく、午後の講義が丁度なくなったしこれ届けに出て来るから」
借りた書とお礼の品を手に大学寮を出る。目的地へは少し歩くが、まぁ丁度良い気晴らしになるだろう。
午後の昼下がりは人もまばらだった。人通りが多いと大路は土埃が立って敵わないので、歩くにはもってこいだ。風も程良く吹いていて、暑くもなく寒くもない。本来なら北堂で講義を受けていたはずだったのが、思わぬ気分転換の時間になった。
先生には申し訳ないが、いくら面白い講義でも午後のこの時間は睡魔に襲われる。そういう時、外を見ると大抵眩しいくらいの青空が広がっていて、講義がなければどこかへ遊びに行きたいなぁ、などといつも考えていたから、まさに願ったり叶ったりである。
時折空を見上げたり、道端の草花に足を止めたり、そんな景色を見てちょっぴり詩の書き出しを考えたりしていると、いつの間にか滋野殿の邸の近くに来ていた。
「あれ、忠臣殿?」
ここで合っていただろうかと築地の前でウロウロしていると、突然背後からそう声をかけられる。
「有長っ」
振り向けば、西曹の後輩・滋野有長が何やら荷物を背負って立っていた。
「やっぱり忠臣殿だ!どうしたのです、うちに用ですか?」
「うん。お父上にこの間貸していただいた書を返そうと思って。丁度休講になったしね」
「何だ、そう言うことなら私に言ってくれれば良かったのに。うちへ帰るついでにいくらでも持って行きますよ」
「いやいや、わざわざ貸していただいたのだから直接お礼は申し上げないと……それにここまで歩くのも良い気分転換になったし」
「それなら良いですが……。今度また同じことがあったらいつでも言ってくださいね」
「気持ちだけ貰っておくよ」
そう言って笑うと、有長が荷を背負い直した。
「ああごめん。重いのに立ち話してしまって。これから西曹へ戻るの?」
「はい。あ、でも自分の書き物を取りに来ただけなので重いのは平気ですし気になさらず。声をかけたのは私ですし」
「書き物……?」
「昔読んだ書について書き付けた物とか元服前の詩歌とかそんなものの束ですよ。やっぱり近くに置いておきたくて」
「分かる気がするなぁ」
「あ、やっぱり忠臣殿にもこういうのあります?」
「あるある。良臣のと合わせて僕らの部屋はそんなものでいっぱいだよ」
「みんなそうなんですねぇ。でもこういうのに意外と良いものが混ざってたりするんですよね」
「うんうん。勿論今の自分のものには劣るし恥ずかしいくらいなんだけど、もう自分には書けない発想のものとか、面白い着眼点のものとかね。ついつい読んじゃったりするよ」
「案外詩作の良いネタにもなるんですよねー。って、いけないいけない、このままだと話し込んでしまいますね。話はまた後でいたしましょう」
「だね。じゃあ気を付けて」
「はい」
手を振って有長と別れる。小さくなっていく後ろ姿を見送った後、門の中へ向かって呼び掛けた。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー」
さっき有長に取次を頼むんだったなぁと思っていると、「はーい」と応える声が返って来た。ややあって門が開き、中から女性が出て来た。
「私、大学寮で学生をしております、島田忠臣と申します。こちらの主にお貸しいただいた書を返しに参ったのですが、今ご在宅でしょうか」
「申し訳ございません。父はついさっき出掛けてしまいまして……私で良ければ代わりに承ります」
……ん?父?
よく見れば、身なりからして家人ではない。滋野殿を“父”と呼ぶということは、年齢から言っても滋野の姫じゃないか!?
「あ、え……あの、で、出て来て、大丈夫ですか……」
「え?」
「いや、その、見られてしまって、ますけど……」
出来る限り目を背けながらしどろもどろに伝える。そんな簡単に顔を見せてしまって良いのか、と。
「ああ……仕方ないんです。今うちの者が皆出払ってまして」
「家人も……?」
「はい。里へ帰っているんです」
彼女は困ったように肩を竦めた。何ということだ。本人はあまり気にしていないようだが、もし滋野殿や有長に知れたら拙いのではないか。来る時を完全に間違えた……。
どうしたものかと目を泳がせていると、彼女が、ああ!と声を上げた。
「そ…それ、白氏文集の、二巻……!」
「は、はい……」
「な、中に、何か入っていませんでしたか……?」
青ざめた顔と、震える声で恐る恐る問われる。
「……ああ。そう言えば詩が書かれた紙が入ってました」
抱えていた書から、挟まれていた紙片を取り出して見せようとすると、目にも止まらぬ速さで彼女にそれを取り上げられる。
「………」
「あ、あの……?」
「……ました?」
「え?」
「これ、読みました……?」
今度は真っ赤になった顔で、そっと訊いてくる。
「はい。滋野殿は随分可愛らしい詩を作るのだなと思いましたが」
「………」
「………」
二人の間に沈黙が落ちる。何も言わない彼女にしばし首を捻り、それからあることに気づく。
「えっ、あ、もしかしてこの詩、あなたが!?」
僕の導き出した答えに、彼女はこくんと小さく頷いた。
「まさか、人に貸すだなんて思わなかったんです……。気づいたら家中探してもどこにもなくて、ああ恥ずかしい……!」
詩の書かれた紙で顔を覆う。
「忠臣様、どうか父上には言わないでくださいませ!」
「そ、それは勿論!誰にも言いません!」
「約束ですよ?私とあなただけの秘密ですからね……?」
「は……はい」
そんなふうに言われて裏切れる人間なんているはずもない。というかもう少し離れて欲しいし警戒心を持って欲しい。こちらが困ってしまう。
「良かった!忠臣様が良い方で」
彼女はパッと清々しく笑った。僕の方も良かった……今のでさっきより距離が取れた。ほっと一人胸を撫で下ろしていると、彼女がそう言えば、と口を開く。
「忠臣様は大学寮で学生をしていらっしゃるんですよね?ということは、弟のことも知っておられますか?」
「有長のことですか?ええ、さっきもそこで会ってうっかり長々と話し込んでしまいました」
答えつつ、そうかこの人は有長の姉君なのだなと得心する。
「そうですか!有長がいつもお世話になっております」
「いえそんな、こちらこそ。しっかり者の弟君で、私も何かと助けられています」
姉として、弟を褒められたことが嬉しかったのだろう、彼女は満足そうににっこりと笑った。
「いけない。私も有長と同じように話し込んでしまうところでした。 忠臣様、今日の用事はこの書を返すだけで良かったですか?」
「ええ。 それじゃあ書も確かにお渡ししましたし、これで失礼します」
「はい。お気をつけて」
深々と礼をした彼女は、程なく門を閉じた。何となく心配な状況だが、そのうち滋野殿がお戻りになるだろうと思い、僕は再び大学寮へと足を向けた。
道すがら、僕は自然と彼女のことを考えていた。
女性であれほどの詩を作り、白氏文集を読める人など、そうはいない。ただ、「父に言わないで欲しい」と言う辺り、それは良く思われてはいないことなのだろう。僕にはそれが凄く惜しいことに感じられた。
今日彼女に会ったことは偶然の重なりであり、きっともう会うこともないが、だったらどこかにあの詩を写しておけば良かったなぁと、大路で一人空を仰いだ。
自分の曹司に荷を置いてから、何か口に入れようと食堂へ顔を出すと、良臣と有長が一緒に座っているのが見え、僕は二人に声をかけた。
「良臣、有長。ただいま」
「兄上。お帰りなさいませ」
「お帰りなさい」
良臣の隣に腰掛け、机の上の果子に手を伸ばす。
「滋野殿には会えました?」
「いや、生憎留守にしていたよ」
「私が出る時にはいたはずなんですが……いなかったです?」
「僕らが話し込んでいる間にどうも出掛けてしまったみたいだったよ」
ぽりぽりと炒った豆を食べていると、有長が「ん?」と声を上げた。
「あれ……じゃあ、忠臣殿は誰に書を渡しました?」
そう問われて、僕は非常に拙い方向へ話を進めてしまったことに今更気が付いた。
滋野殿が家を出た時点で、残っているのが彼女だけだということは、当然有長も知っている。とすれば、僕が書を渡せるのは彼女だけである。
「えっと……それは、その……いや、不可抗力で……」
「やはり姉上に渡したんですね」
はっきりと言われてしまえば、はいとしか答えようがなかった。
「有長の姉君?どうしてそんな人が出て来るんです?家人は?」
「今うちの家人達は全員里へ帰ってるんです。丁度皆家の用事が被ってしまって。父がいなくなると姉上一人になるから、私もその間くらいは自邸から通うと言ったんですが、大丈夫だからと言われてしまい……。やっぱり大丈夫ではなかった」
じろりと睨まれる。
「ぼ、僕だってちゃんと言ったんだよ!?出てきたら拙いんじゃないですかって!僕も気が気じゃなかったよ!いつ滋野殿が戻って来て殴られるかって考えたらもう肝が冷えて……!」
必死になって弁明すれば、有長は大きく息を吐き出した。
「分かってますよ、忠臣殿にそんな度胸がないことくらい。でも弟としてどうしても心配だったんです」
失礼しましたと言われるが、失礼なのはどちらかというと「度胸がない」の部分じゃなかろうか。まぁ、間違いでもないから何も言えないけれど。
「なーんだ、面白くない。ただ書を返して終わりってことですか?」
「良臣、それ以上のことがあったら私が面白くないんだよ!」
……書を返して終わりだった、と言われればそうかもしれない。
でも僕は、あの短時間で彼女の秘密を知ってしまった。
あれは、「書を返して終わり」と言えるのだろうか。
「……兄上、ひょっとして、何かありました?」
良臣の質問に答えず、ぼんやりと天井を見上げたのが良くなかった。その反応を都合悪く解釈した良臣に嬉々としてそう訊かれてしまう。
「えっ、何もないよ!?」
「うっそだー。何もなきゃそんなふうにぼーっとしないでしょう。あ、よほどの美人だったとか?」
「ちが……いや、違わない……けど、とにかくそういうんじゃないんだってば!何もないよ本当に!」
言えば言うほど墓穴を掘っているような気がして、対面に座る有長を見ればわなわなと震えている。拙い!
「忠臣殿………」
「違うんだよ、信じて有長!僕本当に何もしていないから!気になるならお姉様に訊いてみてよ!」
懇願すると、その提案は受け入れる気になったらしく、
「なるほど、それが一番手っ取り早いですね」
と頷いた。
「分かりました。私が姉上に文を書きます。忠臣殿と何もなかったか本人に確認します」
そう言うが早いか、有長は席を立ち、西院の方へと走っていった。
「というか、有長も考えれば分かりそうなもんですけどね。有長とそんなに変わらないくらいで帰って来た兄上が、その短い時間で犯行に及べるはずもないって」
「犯行って……。 大体ね、良臣が焚き付けるからいけないんでしょ。実の兄が困ってるのに余計窮地に陥らせるなんて酷いよ」
「女っ気のない兄上には珍しい出来事でしたから。弟として、これは千載一遇の機会ではないかと思ったわけですよ」
悪びれもせずに言う。勘弁して欲しい。
「ところで、さっき言いかけていましたけど、やはり有長の姉君は美人だったんですか?」
「………まぁ」
こういう時、素直に反応してしまうから弟に揶揄われるのだろうな、と思う。
「うはっ、これはひょっとするとひょっとするかもしれませんね!」
「しないよ!!」
有長の文に、彼女が「良い人でした」とだけ書いて寄越したせいでまたあらぬ誤解を生んでしまい、ひと悶着あったことも忘れ去られてきた頃。
忍び寄る冬に身震いしながら、僕はまた滋野の邸へ向かっていた。
老子の道徳経を貸してもらえないかという滋野殿の文を受け、書を背負って木枯らしの中を首を窄めて歩いていくと、そのうちに目的地の築地が現れる。
呼び掛けて門を叩いた後に出て来たのは、当然ながら彼女ではなく、ほっとする気持ちと残念な気持ちが綯い交ぜになった。
「すまないね、忠臣。こんな寒い日にわざわざ来てもらって」
「いいえ、この間も書を貸していただきましたから、ほんのお返しです。それに先日は直接お礼も言えず、申し訳なく思っておりました」
「良い良い。うちにあるもので役立つものがあればいくらでも持って行きなさい」
「ありがとうございます」
相変わらず気の良い滋野殿に湯と唐菓子を出してもらい、体が温まったところで部屋を出た。
さて、また遠い道のりを引き返すかなと曇天の空を見上げていると、「忠臣様、忠臣様」と名を呼ぶ声がする。しかし、周囲を見回しても声の出所が分からない。首を傾げていたら、視界の端で白いものが揺れた。
「こっちです、こっち」
見るとそれは手であった。手招きをしている。眉を顰めつつ、そちらへ歩いていくと、角を曲がったところで声の正体がはっきりした。
「あっ」
と思わず上がった声は、“彼女”の手に押さえつけられた。
「しーっ!大きな声を出さないでください」
こくこくと頷くと、手が外された。
「ごめんなさい。少し強引になってしまいましたが、忠臣様とお話をしたくて」
「お話……?」
「はい。この間は弟が失礼をしたようで。私も軽率でした。あなたにご迷惑をかけてしまったことを、ずっと謝りたかったんです」
肩を落とし、心底申し訳なさそうに頭を垂れる。
その様子を見ながら、どちらかというと今の状況の方が拙いな、と僕は思っていた。
この間は不可抗力だときっぱり弁明出来たが、今回はそうとも言えない。しかも前回は出掛けていた滋野殿がすぐそこにいるのである。かなり不利な状況だ。
……ただ、だからさっさと会話を切り上げようという思考には至らなかった。
多分、どこかで僕も、この人ともう一度話がしたいと思っていたんだろうと思う。
「……そんなことはないですよ、と言いたいところですが、あの時の有長は怖かったので、素直に受け取っておきます」
「でしょうね……いつもより手蹟が太かったもの」
そう言って溜息を吐く。
「私が悪いんです。忠臣様に、詩を読まれてしまったことに動揺し過ぎました」
それと、と彼女が続ける。
「……私の詩を、あなたが可愛らしいと言ってくださったのが、とても嬉しかったんです」
彼女は、気恥ずかし気にふわりと微笑んだ。
「そのお礼も言いたかったんです。ずっと隠して来たことだから、誰かに読まれて、その感想をもらえる日が来るなんて思ってもみなかった」
あれからもっと詩作をするようになったのだと、彼女は嬉しそうに語った。
そして僕は、あの日のことを思い出す。
「僕は後悔していました。 あの詩を、どこかに写しておくんだったと。あなたとまた会える日は二度とやってこないだろうと思ったから、手元に留めて、また読めるようにしておかなかったことを悔いていたんです」
僕のそんな言葉に、じゃあ、と彼女が手を打つ。
「私とあなたで、詩で文を交わしませんか?」
「詩で……?」
「ええ。そうすれば忠臣様の元に私の詩は残るし、私も、あなたに詩を見てもらえる。私もあなたの詩を見て成長できる。どうでしょう」
「詩友、というわけですね」
「そうです」
楽しそうな彼女の返事に、僕は自分の心が湧き立つのを感じた。
そのやり取りが続く限り、この人との関係も切れることはないのだ。
そのことに対する、この喜びには、まだ名前を付けないでいたい。まだそこまで考えたくはない。ただただ、この人と繋がっていたい。今は、それだけだった。
「僕で良ければ、喜んで」
「で、なんて。 私は、忠臣様が良いんですから」
前言撤回。すぐに名前は付いてしまうかもしれない。
それから、長い冬の間、幸運なことに僕らの文は途切れることなく続いた。更に幸いだったのは、誰にもそれが勘付かれなかったことだった。
彼女──有香子さんからの文は、いつも一つの詩と、近況が書かれている。
詩は、流石というべきかどれも今まで読んで来たのだろう漢籍の知識を窺わせるもので、視点も女性らしく、情景が浮かぶような美しいものばかりだ。
しかし、失礼ながらそれよりも待ち遠しいのは彼女の近況だった。
庭に咲いた花のこと、琵琶をよく弾くこと、手に入った生地で背子を縫ったこと。そんな、何でもない彼女の日常が綴られている。
文が届くたびに彼女のことを知っていくようで、心が弾んだ。
「……はぁ」
届いたばかりの文を手に、ごろりと仰向けになる。
冷え切っていた床は、巡る季節によって少しだけその冷たさが心地良く感じられるようになってきた。つまりは、また春がやって来たのである。
曹司の御簾越しに、庭の桜が舞い落ちていくのが見える。毎年この季節は何だか物悲しい。どうして桜は散ってしまうんだろう。鳥が枝に止まらなければ。風が吹かなければ。そんな、考えても仕方ないことを繰り返し思う。
……このまま何もしなければ、僕と彼女はいつか離れていくんだろう。それは、毎年散り行く桜と同じ。ただ桜と違うのは、引き留める手立てが全くないわけではないということ。
僕が勇気を出せば、或いは───。
そんな考えが過って、しかしそれを振り払った。僕なんかじゃ、有香子さんを幸せには出来ない。彼女にはもっと相応しい人がいる。ただの「詩を介した友人」である限りは、少なくともこの関係は続けられるのだから、今はそれに甘んじていればいいのだ。
言い聞かせた後、持っていた文を頭上に広げる。しばらく視線を動かしてから、僕は「えっ!?」と声を上げて起き上がった。
「……“外で、会いましょう”?」
文には、暖かくなって来たから春の花を見に出掛けませんか、ということが書かれていた。集合場所や日時まで書かれている。誘いというよりも、約束の段階だった。待っているから必ず来て、というように読み取れる。有無を言わせない感じだ。
しかし……そもそも、男女が外で会うなんて問題があるんじゃないか。それは邸へ通うよりは良いのかもしれないし、何なら僕もこの方が余程気が楽ではあるが、良いか駄目かで考えたら駄目寄りであると思う。誰かに意見を求めたいが、周りには秘しているからその相談さえ出来ない。
しばし悶々としながら何度も文を読み返していると、大変なことに気づく。
指定された日付が今日だったのだ。
「えっ、ちょ、もう行かないと間に合わない!?」
文でやんわりと咎めようとしていたのに、その選択肢は初めから与えられていなかったようだ。そして、何となく彼女は狙ってこれをやったような気がする。僕が断ると分かっていて、それが出来ないようギリギリに文使いを行かせたんだろう。とんでもない策士だ。
何にせよ行かないわけにはいかなくなった僕は、取るものもとりあえず曹司を飛び出した。
「やっと来た」
桂川の畔の木に背を預けて立っていた有香子さんは、息を切らした僕を見てそう言った。
「ごめっ、まさか今日の今日だなんて、思わなくて……っ」
他に言いたいことがあったはずなのに、遅刻の弁明しか出来ない。これじゃあ彼女の思う壺じゃないか。
「ちゃんと間に合うように文使いを行かせたのに、どうしてこんなに時間がかかるのよ。すぐ読まなかったの?」
やはり僕の思った通り、彼女は確信犯だった。
「いやその、考え事してて……」
「考え事って何?人の文が届いているのに、他に何を考えるの?」
頬を膨らませて仁王立ちする彼女は、僕より背が低いはずなのに大きく見えるほどの凄みがあった。納得する答えが得られるまで許さない、と顔に書いてある。
「……えっと……君のことを、考えていました………」
何て恥ずかしい回答なのだろう。居たたまれなくて顔を手で覆う。穴があったら入りたい。
「ふふ、なら許すわ」
一方の有香子さんは満足そうに笑った。変に誤魔化さなかったのは結果的には正解だったようだ。僕は精神的に深手を負ったけれど。
「じゃあ、行きましょうか」
変に早鐘を打つ心の臓を押さえていると、ふいに有香子さんがそう言った。意気揚々と歩き出そうとするので、慌てて引き留める。
「待って!!」
「え?」
「え?じゃないよ!僕はまだ今日のこと納得してないよ!?」
有香子さんがキョトンとして小首を傾げる。
「文で詩をやり取りするだけならまだしも、これは駄目だよ!女性が大っぴらに外を出歩くのも良くないし、それもお、男となんて、駄目に決まっているよ!」
必死に説明するも、残念ながら有香子さんが意に介した様子はなかった。
「そんなに気にすることかしら」
「気にしてよ、お願いだから!」
僕の懇願に、頬に手を当てて考え込む素振りを見せた後、有香子さんは徐に言った。
「例えばあなたが、その辺で偶然会っただけのどこの馬の骨とも知れない初対面の人だったら問題があると思うわ。何があっても保証は出来ないものね」
「え、うん……それはもちろん」
「でも忠臣さんの素性を私はよく知っているし、顔を見たのも話をしたのも初めてではないし、長いこと文のやり取りもしていたから前よりお互いのことは分かっているわよね?」
「それは……まぁ」
何だかこの話の行き着く先に胸騒ぎがする。
「それにこれは半ば確信なのだけど、私達きっと相思相愛でしょう?だったらもうどこで何をしようが気にする必要はないと思うの」
「グフッ、げほ、ごほッ! な、何だって!?」
今とんでもないことを言われた気がする。驚いて噎せてしまい、咳き込む僕の背を有香子さんが摩る。
「ちょっと大丈夫……?」
「だい、ゲホッ、大丈夫なわけないよ!急に何を言い出すの!?」
「あら違った?」
「ちが、違わない……けど、違わないけども!どうしてバレてるの!?」
「あ、良かった、合ってたわね」
「えっ!?」
ようやく落ち着いて来た僕の背から、有香子さんが手を離した。
「ちょっと鎌をかけてみたの。七割くらい自信はあったけど確信までは持てなかったから、どうすれば忠臣さんの気持ちが聞けるかしらって色々考えて。大成功ね」
心底嬉しそうに、してやったりというように笑う。どうやら、僕は見事に彼女の仕掛けた罠に嵌められたらしかった。
「何で、こんなこと……」
「だって忠臣さん、性格的に自分から言ってくれそうになかったんだもの。色々考えた末に私のこと諦めてしまいそうだし。じゃあもう私が動かないとこのまま私達終わってしまいそうだなと思って、一大作戦を決行してみました」
楽しそうに笑う彼女を見ながら、敵わないな、と思った。
何もかも見抜かれている。この気持ちに名を付けることさえ恐れて、何も告げずに今の関係を続けられればそれで良いと自分に言い聞かせていた。有香子さんのことを、諦めるつもりだった。彼女とどうこうなりたいだなんて思うことすら烏滸がましいことだと考えていた。
そんな僕の思考を読んだ上で、その更に上を行くだなんて。
「参りました……」
完敗だった。
「ふふ、勝っちゃった」
「凄いや、軍師にでもなれそうだよ」
勝利に燥ぐ彼女を褒め称えてから、僕はでも、と呟いた。
「僕は確かに嬉しいけど、有香子さんはどうなの……?こんな僕のどこが良いの?」
僕から有香子さんへの感情は認識できていたけれど、逆というのは想定外だった。自分が女性に好かれる想像なんてしたこともなかったし、もちろん今までその手の経験はない。だからというわけではないが、僕はまだ有香子さんの言った“相思相愛”という言葉が信じられなかった。
「私がこんなに嬉しくて小躍りしてるのにどうしてそんな疑問が出て来るのよ。思いが通じ合ったから喜んでるに決まってるじゃない。それはつまりあなたのことがこれだけ好きなんだって素直に解釈出来ないの?」
彼女が口を尖らせる。
「ごめん……でも信じられなくて。自分が人に好かれる要素があるようには思えないか、ら───」
喋っている途中で身頃を掴まれ、視線を落とすと、とてつもなく不機嫌な彼女と目が合い、僕は息を飲んだ。
「あのね、私の気持ちを否定しないでくれる?私はあなたが、島田忠臣が好きだって言ってるの。そんなに不安ならあなたのどこが好きなのか片っ端から全部挙げてあげるわよ」
内容的には僕は嬉しがるべきなのだろうが、彼女は殺気立っているし、端から見ると何だか迫られているような格好で、周りの人通りもそれなりにあり、僕は気が気ではなかった。そしてその様子を察した有香子さんに、また叱られてしまう。
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの?」
「む、無理だよ……!お願いだからちょっと、離れて……!ひ、人の目が……っ」
そこまで言うと、有香子さんが身を引いた。どうやら聞き入れてくれたらしい。しかしホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、ぐいと僕の手を取ると、彼女は歩き出した。
「ど、どこ行くの!?」
「………」
前を行く彼女に問い掛けるが、答えてくれる気配はなく、ずんずんと人気のない方へ歩いていく。そのうちに周りに誰もいなくなり、森の入り口辺りにある小さなお堂まで来て、ようやく有香子さんは立ち止まった。
「もう、面倒くさい人ね!ここまで来れば気にならない!?」
「……はい」
僕の返事を確認した後、さらに手を引っ張ってお堂の濡れ縁へと腰掛けると、僕にも座るように言った。彼女にとってはどうでも良いことなのかもしれないが、全然手を離してくれない。いつまで繋いだままなんだろう。僕はもう手汗が気になって仕方がない。
「……また全然違うことを考えてるわね」
僕の顔を覗き込んだ有香子さんがじろりと睨みを効かせて言う。
「あ、その、僕の手、ベタベタじゃない……?ごめん、緊張で汗が……気持ち悪いよね?」
恐る恐る訊けば、有香子さんは目を丸くした後、噴き出した。
「やだもう!そんなこと気にしてたの?」
お腹を抱えて笑う。
「そんなことって……だって、君に嫌な思いさせてたら申し訳ないしさ……」
おずおずと手を離そうとするが、逆に握り込まれてしまう。
「え、ちょっ……」
「全然嫌じゃない。私が好きでこうしてるの。……でも、忠臣さんが嫌なら離しても良いわ、我慢する」
少し寂しそうに言われたら、それでもなお振り解くことなんて出来るはずもない。
「……僕も、嫌じゃない」
涼しい木陰にいるはずなのに、頭から爪先まで熱くて堪らなかった。隣に座る彼女の顔が見られず、沓の先をじっと見ていると、有香子さんが口を開いた。
「忠臣さんの好きなところはね、たくさんあって挙げ始めると切りがないの。多分陽が暮れてしまうと思うわ。そうしたらあなたのことだから私に早く帰れって言うと思う。そういうことに乗じて私の部屋へ来たりはしないの。でもね、そういうところも好きなのよ」
ふらふらと有香子さんの足が揺れる。
「色々言うけれど、結局全部私のことを大事に想ってくれてるから出る言葉なの。一番最初だって、文の中身だって、今日だって。全部そう。遠慮がちで、不器用で、温かい優しさなの」
ぎゅうと手を強く握られたから、思い切って握り返してみる。滑らかで、細くて、僕とは全然違う指だと思った。
「……ただ、そういう優しさも安心出来るしもちろん嬉しいんだけど、好きな女性相手にしてはあまりにも遠慮し過ぎっていうか、私としてはちょっと不満なのよね。もう少しぐいぐい来て欲しいというか」
「え゛」
何だか話の流れが変わったような気がするが、気の所為だろうか。
「普通はもうこのくらいの段階でそういう話に持って行くか夜這いくらいしない?詩はそういうものじゃないから仕方ないにしても近況にだって全然それを窺わせるようなこと書いていないし、悪い意味で全く下心が感じられないのよね。結局賭けには勝ったけど、私よほど魅力がないのかしらって不安だったのよ?私だけが忠臣さんのこと好きなんじゃないかって」
急な不満の嵐に、僕は何も言うことが出来ない。
「清廉なのは結構だけど、まるでそういうことは一切良くないことみたいな考え方、どうかと思うわ。だって出家でもしない限りそういうことと無縁ではいられないじゃない。あなたがそんなんだから私が積極的になるしかなかったけど、これじゃ私がはしたない女みたいで恥ずかしいわよ」
握っていた手に、いつの間にか爪が立っている。
「い、痛い……」
「ふん、ちょっとは私の気持ちも考えれば良いのよ。私のことを想うなら、私が何を求めてるかもう少し想像して欲しいわ」
ぷい、と有香子さんがそっぽを向いてしまう。
想像、と言われても、現に今彼女が何を僕に求めているのかまるで分からない。どうしよう。
「………」
もう一度彼女の言葉を思い返すと、僕の積極性のなさを咎めていたから、求められているのはそういうものなのだろうか。え、でも積極性って何だろう。
眉根を寄せ、口をへの字にして考える。物凄く情けない顔をしている自覚はあった。こういうことがサッと分からない所為で彼女を苛つかせているのだろう。愛想を尽かされるのも時間の問題かもしれないと思うと、胃が痛い。
若葉の間から覗く青い空を見上げる。さわさわと木が揺れて、気持ちの良い風が吹き込んでくる。爪を立てるのをやめた彼女の手は、少し力が緩んでいた。それが何となく寂しくて、僕はまた手を引き寄せて握った。最初は緊張して、離したくて堪らなかったくらいだったのに、今はその少しの隙間が切ないなんて。
繋ぎ直した手の感覚に、有香子さんがハッとしてこちらを見る。何だか随分久し振りに顔を見た気がした。
「ごめん、ごめんね有香子さん。君の期待に応えられない男で。せっかく思いが通じ合ったけど、もう愛想を尽かされたって文句は言えないよ」
本当に彼女の幸せを願うのであれば、僕が有香子さんの望みを叶えてあげられないと分かった時点ですぐさまこの手を離すべきなのに、どうしてもそれだけはする気になれなかった。
「……愛想を尽かされるのは、私の方よ。我儘言って困らせてごめんなさい。私のこと、嫌いになったでしょう」
「それだけはないよ!!」
有香子さんの言葉をやや食い気味に否定すると、彼女がびくりと肩を揺らした。
「あっ、ごめん!驚かせるつもりはなくて……とにかく、君が僕を嫌うことがあったとしても僕は君を嫌いになることはないというか、いや、もちろん嫌われたらそれ以上しつこくしたりはしないけど、えーっとだから、つまり──」
しどろもどろに言葉を紡いでいたら、隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「な、何で笑うの……僕何か変なこと言った……?」
「ちが、ごめんなさい……ふふっ、違うのよ。私、嬉しくて」
急に笑い出した有香子さんに首を捻っていると、一つ息を吐き出してから、彼女が僕の方へ身を寄せた。ぴったりと密着するような形になって、思わず上擦った声が漏れる。情けないことこの上ない。
「よーく分かったわ。忠臣さんが、ちゃんと私のこと好きだって」
「……僕も分かったよ。有香子さんが僕を好きだって言うのが、嘘じゃないって」
「ちょっと、嘘だとまで思ってたの?」
「う、うん。何かの間違いだと……」
すぐ隣の有香子さんに言うと、大きな溜息が漏れた。
「前々から思っていたけど、忠臣さんってかなり卑屈よね」
「卑屈……!?」
「全然素直に捉えてくれないじゃない。これだけ私が言ってもまだきっと半分も伝わってない気がするもの」
だから、と呟いた彼女は、少し体をこちらへ傾け、そして僕の胸に顔を寄せた。
「えっ、あ、有香子、さん……!?」
繋いでいない方の手が、空中を彷徨う。近い、物凄く近い。口から心の臓が飛び出そうだ。
「───あなたが分かるまで、何度だって好きって言うわ」
そんなの、途中で僕は死ぬんじゃないだろうか。今ももう割と死にそうである。
彼女から薫る荷葉の香りに目眩がして、何だか良くない箍が外れしまいそうになるのを必死に押し止めていると、彼女が顔を上げた。また不服そうな表情をしている。
「ねぇ、その手は?」
「て……手!?」
「普通は私の背に添えたりするものじゃない?何でそんな中途半端なところで浮いているのよ」
「そ、そんなこと言ったって───わぁっ!?」
痺れを切らしたらしい有香子さんは、繋いでいない方の僕の手をぐいと引っ張り、自分の背へと載せた。背子越しに、手を繋いだ時とは違う彼女の体温を感じる。というかこれもう抱き締めているのとそう変わらない体勢のような……。
人通りがないとは言え、いや、むしろだからこそ、凄く良くないことをしている気がする。文のやり取りは何度もしたけれど、彼女と会って話すのはまだ3度目なのに、もうこんなに密着しているだなんて。眼下の艶やかな髪だとか、彼女の息遣いだとか、ふわりと立ち昇る香りだとか、もう変なところに意識が行き過ぎて頭が吹き飛んでしまいそうだ。
何とか意識を逸らさないと!
僕は顔を上げて周囲を見回した。早春の森は、若い芽がそこかしこに顔を出していて、小振りな野の花が控えめに咲いていた。長い冬を耐えた後に咲き祝う花々には力強さを感じる。まだ少し肌寒いけれど、点々と落ちる木漏れ日には穏やかな暖かさがあった。やはり寒々しい冬よりも、暖かな春が良いな、と思う。
「……また違うこと考えてるでしょう」
どきりとして腕の中の有香子さんに視線を戻すと、不機嫌そうな目がこちらを向いていた。
「えっと、それは……」
「どうしてここまでして私のこと意識しないのよ」
「い、意識したら、良くないと思って、だから、必死に逸らしてました……」
女性経験が豊富な人であれば、きっとこういう時さらりと嘘を吐いて、「そんなことはないですよ、あなたのことを考えていましたよ」くらい言うんだろう。でも多分、そんな芸当は僕には一生出来ない。
包み隠さず…というか隠せずに告白すれば、意外にも有香子さんは驚いた顔をした。
「ということは、逸らさないといけないと思うほど私のこと意識してくれたってことよね?」
完璧に言い当てられてしまえば、僕はもう頷くことしか出来なかった。
「ふふ、やった」
そう言ってまた身を寄せて来るので、僕はそれを少しだけ押し返した。
「……どうして押し返すの」
「こ、これ以上は本当に……拙いから……っ」
「拙いって何が?具体的に言ってくれる?」
「ぐ、具体的に!? 言えないよ!」
僕が言わなくとも有香子さんにはこれもまたお見通しなのだと思うと居た堪れなくて、必死で距離を取ろうとするも、それはやはり許してもらえない。
「忠臣さん。私達、相思相愛だってさっき分かったでしょう」
「う、うん、それがなにっ?」
「つまりもう、恋人ってことよね?」
「えっ、そ、そうなる……ね」
「じゃあ、我慢する必要ってあるのかしら……?」
有香子さんの顔が至近距離に近づく。本当に、もう少しで触れてしまいそうな───。
「だっ、駄目だよ!!」
有香子さんの肩を、ぐいと押し戻し、僕は勢い良く顔を背けた。あ、危なかった。勢いに飲まれてしまうところだった。
「……あと少しだったのに」
ま、また確信犯だ!?
「何が駄目なのよ。何も問題はないって言ってるじゃない。遠慮なんかしなくて良いのよ」
「え、遠慮とかそういうことじゃなくて!僕の心の準備の問題だよ!」
「忠臣さんの準備が整うのを待ってたら私お婆さんになっちゃうわ」
う、一理あるかもしれない。
「だ、だけどさ、僕達顔を合わせたのまだ3回目なんだよ?有香子さんは良いの?こんなに展開早くて」
「今日は押せるところまでは押す気だったもの。まだ想定内よ」
あっけらかんと言う彼女に思わず立ち眩みがして、僕は額を押さえた。
「一応聞くけど、最大でどこまで想定してあるの……」
「そうねぇ、上手く行けば邸に来てくれるかしら、って」
「行かないよ!!」
僕の否定に、有香子さんは頬を膨らませ、残念だわと呟いた。
「忠臣さん、想像以上に手強いわ。色んな策を考えて臨んだけど、半分も功を奏してない」
自分の思う以上に彼女の手の内で転がされていたのだと気づき、思わず身震いする。
「というか、一つ訊きたいんだけど、何でそこまでするの……ここまで労力を割く価値が僕にあるとは思えないし、勿体ないと思うんだけど」
根本的な疑問を口にすると、彼女は眉を顰めた。
「またそれなの?私は他でもないあなたと恋人になりたかったし、あなたとあんなことやこんなことをした───」
「そこまで!」
慌てて彼女の口を手で塞いだ。
「何よ」
「……はぁ、全然理解出来ないけど、とにかく分かったよ。今日はもう僕はこれ以上何かすると死にそうだから有香子さんの望みを叶えてあげられないけど、次からは努力する」
いよいよ認めざるを得ない。何だか分からないが、有香子さんはこんな僕のことが好きなようである。
ただし、それにただ流されて良いのかというのは別問題だ。これ以上のことには当然責任が伴うし、そのうちあっさりと飽きられる可能性だってある。その時に僕だけがみっともなく縋るのはおかしいし、そうなってはいけない。どういう事態になっても、彼女が幸せになれる道から逸れることだけはないようにしなければ。
「努力っていうことは、次は私からじゃなくて良いってことよね?」
「ん?」
「次に会う時の日程や場所決めも任せて良いし、何となく良い雰囲気になった時には忠臣さんから動いてくれるのよね?」
「………ぜ、善処します」
つらつらと淀みなく言う彼女の言葉を聞きながら、ああそうか、今日は全部有香子さんにやらせてしまったんだなぁと思い、男として情けなかった。益々こんな奴で良いのだろうかという疑問が浮かぶ。世の中には考えなくたって流れるようにそういうことが出来る男が溢れているのに。
「楽しみだわぁ~、次はきっと私の部屋へ来てくれるわね?」
「そ、それはまだ勘弁してください……」
まだっていつまでなの?と言われるが、最悪はいつまでも行かないだろう。行ったらそれはもう彼女に対して責任を取るということになるし、それは即ち僕以外との未来を閉ざしてしまうことになる。やっぱり、と思った時にたくさんの選択肢があることが、きっと彼女にとって幸せなのだ。
僕は確かに彼女のことが好きだけど、同じ重さをずっと求めることまでは今はまだ出来ない。だからとりあえず、いつでも引き返せるように、僕が彼女の中から消せなくなるようなことがないように、彼女が僕を好きと言ってくれている間だけそうやって隣にいようと思う。自分に対してあまりにも甘い考え方ではあるけれど。
嗚呼、でも。本当にいつまでもそうやって自制が利くのだろうかと、彼女の細い指を握りながら僕は息を吐き出した。