秋嵐
「あら、何だか暗くなって来たわね。風も強くなって来てるみたい」
有香子さんがふと外を見ながら言った。
「そう……だね」
曖昧に返事をしながら、僕はその実、とっくに“それ”に気づいていた。
ここへ来るまでに、雲行きが怪しかったことも、風が強いことも分かっていた。そう、このまま行くと数刻後に嵐が来るだろう、と。
だから、この時間から彼女の邸へ行って、少しでも長居をすれば、帰るのが難しくなるだろうと思い、もしもそういう事態になったらどうしようと、部屋へ通されてからずっと空模様に気を取られていた。
「有香子さん、僕今日はもう帰るよ。天気も悪くなってきたし、遅くなっちゃ悪いから」
丁度良い頃合いだろうと、有香子さんの言葉に便乗する形で、僕はそう言いながら腰を上げた。のだが。
「んッ!?」
後ろにぐいと引っ張られ、危うく転びそうになる。恐る恐る振り向きつつ、僕は袖を掴んでいるその人を見た。
「ゆ、有香子さん?」
「……忠臣さん、今何て言ったの?」
「え」
「ごめんなさい。よく聞き取れなかったの。もう一度言って?」
僕の袖を引いたまま、有香子さんは顔を伏せて静かに言った。何だか怖い。
「えっと…だから、今日はもう帰るって──」
「聞こえない。もう一回」
「きょ、今日はもう帰」
「もう一回」
「だから!今日はこれで帰…るうぅッ!?」
語気を少し強めて繰り返したところで、僕は有香子さんに──有体に言えば、押し倒された。
「ゆ、ゆゆ有香子さんっ!?」
「帰らないって言って」
「えぇっ!? い、言えるわけないよ!」
「今日はここに泊まるって、そう言いなさい!」
「言えないよ!そんなこと出来ない!」
「どうして!?私のこと好きじゃないの!?」
「す、好きだよ!でもそれとこれとは別問題だよ!」
「別問題なもんですか!同じ問題よ!恋人の邸へ来ておいて何もせずに帰るですって!?忠臣さんはそれでも男なの!?」
「恋人の邸へ来たからち、契るなんて、そんな男は最低だよ!」
もみくちゃになりながらも密着しそうになる彼女の体をどうにかこうにか引っぺがし、僕は叫ぶ。
「最低どころか普通よ普通!この状況で何もして来ない忠臣さんが変わってるのよ!」
「そうかもしれないけど!戸令二十七の先姦条にあたるよ!!」
「そんなの今時誰が守ってるっていうの!?機能してない律令を持ち出すくらい私とは契りたくないっていうのね!?」
最初こそ「押し倒された」状態だったのが、今や「胸倉を掴まれた」状態である。
「そんなこと言ってないじゃないか!もっと有香子さんは自分を大事にしてよ!!」
「忠臣さんはそればっかり!私はあなたと結婚するのに、一体誰に遠慮してるのよ!」
「遠慮とかそういうことじゃなくて、こんななし崩し的に契るのは良くないって言ってるんだよ!」
ようやっと有香子さんの体を遠ざけることが出来た僕は、肩で息をしながらそう言った。
なおも不満そうな彼女が口を開くより先に、僕は諭すように語りかけた。
「あのね、有香子さん。この間言ったように、やっと僕も覚悟を決めて君と一緒になりたいと言ったけど、例えばこれでもし君とここで交わって、子が出来てしまったら、もう結婚するしかなくなるよね?」
「……それでも、良いじゃない」
頬を膨らます彼女に、しかし僕は首を振った。
「ただ君と一緒になれれば良いとは思ってない。少なくとも僕は。 ちゃんと、君を幸せに出来る僕になってからじゃないと意味がないし、文章生になることは、僕のけじめなんだよ」
「………」
「結局大切な君を悲しませてしまうくらいなら、一生結婚しない方がずっと良い──」
「っ、それだけは違うわ!」
それまで不服そうにしながらも黙って聞いてくれていた有香子さんは、急に声を張り上げた。
「忠臣さんと一緒になれない人生の方が、ずっとずっと悲しい!あなたと夫婦になれないことの方が私にとってはよっぽど不幸よ!」
わっと有香子さんが泣き出した。
またやってしまった。もう何度目なのだろう。
同じようなやり取りで、彼女をこうして泣かせてきた。毎回愛想を尽かされても文句は言えないと高を括りながら、それでも彼女を想って自分の考えを伝えて来たけれど、彼女は彼女で不平を言いながら、何故か最後には丸く収まってきている。それが僕には不思議だった。
泣きじゃくる有香子さんを抱き寄せると、背に彼女の腕が回されて、僕はこっそり息を吐く。良かった。拒否はされていないみたいだ。
などと思ったのも束の間。
脇腹を抓られて、僕は悲鳴を上げた。
「いたいっ、痛いよ有香子さん!」
「雰囲気で流されてなんかやらないわよ……!ちゃんと言質を取りますからね。いい、この間私はあなたが自信を持てるようになるまで待つと言ったけれど、忠臣さんと結婚しないなんて一言も言ってないですからね!あなたと私が一緒にならない選択肢だけはないって、ちゃんと分かるまで手を離してあげないわ!」
そう言ってかなりきつく抓んで来る。ちょっと爪も食い込んでいるような気がする。物凄く痛い。
「わ、分かった、分かったから!」
「何が分かったのか具体的に言わなきゃだめ!」
「えっと、だから、何があっても僕は君と一緒になります!」
その僕の宣言を聞いて有香子さんはようやく手を離してくれた。
ああ、絶対言うまいと思っていた言葉を言わされてしまった。これじゃあ僕がここからとんでもなく落ちぶれたとしても有香子さんと僕が結婚することになってしまう。それだけは避けたかったのに。君が幸せになれる道を残しておきたかったのに。
「あー、忠臣さんからやっとこれが聞けたわぁ。私のことが泣くほど好きなくせにいつも私が他の人と結婚することが頭の隅にあるの、滅茶苦茶腹立たしかったのよねぇ」
目が据わっている……怖い。
「そんなことを考えてしまうのは私の幸せがどうこうじゃないわよ、本当の意味で覚悟が決まってないだけだわ。どんなことがあろうと私を幸せにして、自分も幸せになるって、それくらい言えないの!?」
「い、言えませんでした……すみません」
項垂れて言えば、有香子さんが大きく息を吐き出した。
「ま、正直で偽らないところが忠臣さんの良い所でもあるんですけどね。 忠臣さん、私はね、前にも言ったけどあなたと一緒に居ることが幸せなの。あなたと別に生きる人生で、私が幸せになれることなんて絶対ないのよ。経済的な苦労とか、暮らしの豊かさとか、そんなことはいいの。二人でいれば、大概のことは何とかなるわ」
「有香子さん……」
「だから、変に肩肘張らなくたって良いわ。あなたが納得するしないはともかくとして、私はどんなあなただって良いんだもの。むしろ忠臣さんが納得していなくても私勝手に民部省に届け出るつもりだし」
「えぇっ、それはまずいって!」
「それが嫌なら、頑張る、ということよ。それでいいんでしょ?」
「うん。……頑張ります」
「はい、よく出来ました」
にっこり笑った有香子さんは、背伸びをして僕の頭を撫でようとしてしかし、届かなかった。
「……しゃがんで」
「はい」
膝を折って頭を差し出すと、彼女はよしよしと満足そうに撫でた。
「ところでさ、有香子さん」
「なぁに?」
「僕、帰って良いんだよね?」
「は?」
恐る恐る問うと、案の定彼女から低い声が上がった。何という堂々巡りだろう。
「え、は?この流れで帰るの?」
「いや逆にこの流れは帰って勉強じゃない?文章生試に向けてさ」
「一回私のこと泣かせておいてその埋め合わせもしないで帰る気なの?どうかしてるわよ」
「う……」
そこを突かれると痛い。
「で、でもさ。やっぱり今日はやめておこうよ。君の部屋に来たことすら初めてなんだし、こういうのはほら、徐々にっていうか……」
「今日は……徐々に……ということは忠臣さん、婚前交渉は受け入れることにしたのね?」
「………」
しまった。つい言葉を間違えた。
「い、今のは違って……今日だろうが何だろうがしないし、徐々にでもないです……」
「嘘ね、さっきまでのやり取りでちょっと乗り気になったんでしょう。今のは本音よ、間違いないわ」
そんなことはないと否定しかけて、けれど僕は「果たして本当にそうだろうか」と自分の胸に問うた。
多分、気が緩んだのだろう。「何があってもこの人と一緒になる」と口に出したから、それなら多少良いんじゃないか、なんて思ってしまった。
いや、それよりもきっと、さっき彼女と揉みくちゃになった時、思わぬ急接近をした所為で邪な感情が過って───。
ブンブンと慌てて頭を振った。だめだだめだ。流されたらいけない。
「今日は帰ります!!」
「どうしてよ!?」
「どうしても!!」
行かせまいと腕を引く有香子さんを、理性でどうにか押し返していると。
ザァーーーッ。
いきなり桶をひっくり返したような雨が降って来て、御簾を捲り上げる強風が吹いて来た。
恐れていた嵐の到来だった。
「忠臣さん」
「……なに、有香子さん」
「これはもう、泊まるしかないわよね?」
「………」
僕はそのまま有香子さんに腕を引かれ、部屋の奥まで連れ込まれてしまったのだった。