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​菅公夫人の墓

岩手県に「菅公夫人の墓」なるものがある。

ここでは菅公夫人=島田宣来子なのかを検証する。

 

まず菅公夫人の墓について、岩手県のHPには「道真公の夫人は胆沢郡(現在の岩手県)に流され、延喜6年(906)9月、42歳で逝去しました。現在、一関市東山町田河津には、その墓として石碑1基と五輪塔2基が残っています。」とある。

また天満大自在天神のWikipediaには「宣来子と娘の母子4人が落ち延びて暮らしたという落人伝説が残されている。延喜元年(901年)、道真が左遷された時、藤原滋実の死の仔細について調べるよう道真より命をうけた五男菅原淳茂が、母子と重臣菅原山城を伴い、落ち延びたという。その時宣来子は、紀長谷雄の娘「吉祥女」と称したとされる。延喜6年(906年)、道真の訃報を聞くや否や悲しみに暮れ、病に伏し、同6年9月12日そのまま帰らぬ人となる。奥州市前沢区母体で逝去。享年42歳。その後、「菅公夫人の墓」が建てられそこに祀られた。現在は吉祥天神という神社になっている。」とあり、「昭和30年代末から昭和44年にかけて、小さな部落の中で6・7年の間に、10人に余る変死が相次ぐという事件が起こった。里人たちは、これは何かの祟りではないかと戦々恐々した。郷土史研究家の高橋大蔵は「これは、菅公夫人の墓の真偽について騒いでるだけで、ろくに供養もしないでいるためではないだろうか。菅公の例に倣い、菅公夫人の霊を弔おう。」と思い立ち、昭和45年秋頃、菅公夫人の一千年祭を、部落総出で盛大に行った。すると、それ以後不可解な事件は起きなくなったという。平成6年この墓の存在を知った太宰府天満宮宮司は門外不出とされる梅の木を菅公夫人の墓に自ら植樹、続いて鎌倉荏柄天神社、平成9年には京都北野天満宮からも梅の木が贈呈されたという。」ともある。

 

さていくつか疑問があるが、一つ一つ考えていく。

 

①生没年の矛盾

宣来子は昌泰2年(899年)に彼女の五十賀に際して従五位下に叙されている。そしてこのことから逆算して、嘉祥3年(850年)生まれだというのが通説である。

算賀には娘・衍子が入内していたことから宇多上皇も御幸し、醍醐天皇が勅使を遣わして官位を授けている。このことは様々な書物に見え(北野天神御伝等)、叙爵そのものが公的なものであることを踏まえれば、事実であろうと考えて良い。

もしもこの岩手県に落ち延びた彼女が宣来子と同一人物であった場合、亡くなったとされる906年には56歳であるため、享年42歳というのは計算が合わないし、昌泰2年で既に50歳を超えているのだから大きな差異がある。

 

また、こちらで述べたように、宣来子の死期については902年12月25日(902年の秋冬頃)という説もあり、その場合享年は53歳。こことも矛盾がある。そして宣来子の墓所は吉祥院天満宮近くの北政所御墳墓が、彼女の辿った足取りから考えるに一番信憑性が高そうであると考えている。

道真の訃報というのは903年なので、いくら距離があるとはいえ3年もかかるだろうか、という疑問も残る。

​因みに、京都市歴史資料館情報提供システムのいしぶみデータベース(史跡石標・道標の基本的なデータを提供するもの)には「北政所吉祥女住所蹟」が掲載されているが、「島田忠臣の娘宣来子(865~906)」と紹介されている。これは岩手の女性の没年である「906年」から享年の「42歳」を引いて計算したものと思われる。

 

②「紀長谷雄の娘『吉祥女』と称した」とはどういうことか

まず、「吉祥女」は確かに宣来子の神号ではあるのだが、生存中に名乗っていたかは疑問である。

「長谷雄の娘」については、宣来子は島田忠臣の娘なので合致しない。また身分を隠すための嘘にしても、生存中の長谷雄よりもう死んでいる忠臣の方が良いのではないかと思うし、身分を隠したいのであれば貴族であることを明かす必要性が分からない。ただ昌泰の変で、扶桑略記においては長谷雄が宇多法皇の足止めをしているため、道真側ではないことの証明であれば有用な嘘かもしれない。

※ちなみに図書館で人物辞典を何冊か調べた際、宣来子を長谷雄の娘と書いている本があった。恐らくはこの話を引用してしまったものだろう。

 

さて、ここで考えてみたいのが「岩手に落ち延びた女性は道真の妾ではないか」という説である。

当時は一夫一妻多妾制で、道真の子は19人とも23人とも伝わる割に宣来子との子と伝わるのは2人くらいしかいないため、妾はいたとしてもおかしくはない。彼女について、宣来子と考えると生没年・年齢に整合性がないが、全く別の人物と考えて、道真の妻の一人≒妾と考えれば一応筋が通る。

 

そしてこの女性が本当に「長谷雄の娘である」としたらどうだろうか。

道真と長谷雄は同い年なので、道真は自分の娘と同年代の女性を迎えた、ということになる。逆算すると長谷雄(と道真)が20歳の時の娘なので、それでも可能性としてないわけではない。友人の娘をもらうというのはまた驚きだが、友好の証……とも言えるかもしれない。

道真と彼女との間には単純に考えれば娘が3人いたようだが、年齢によっては男児がいても連座していたかもしれない。

※長谷雄は自分の息子には必ず「淑」の字を付けている。道真の子の中にも淑茂という人がいる。ひょっとするとひょっとするのかもしれない。

 

一方、長谷雄には道真の妻を逃がした、という伝承がある。

宣来子はどこへも逃げてはいないため、これが岩手へ落ち延びた女性のことであるならば、自分の娘だから逃がした、と考えることもできる。

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