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​高視・淑望・貫之

高視・淑望・貫之は同世代か?ということについてぶつぶつとメモ。

 

淑望の生年が分かっていないのが痛い。貫之は872年生まれ説を採れば、高視と4つ差でそんなにズレはない。没年で辿ろうとすると貫之が長寿過ぎる&高視が早逝過ぎてよく分からなくなる。

 

貫之の父の茂行(望行とも)が、道真や長谷雄(二人は同い年生まれ)と同年代なら良いのだが、茂行についてさっぱり情報が出てこない。

 

淑望と貫之は古今和歌集の真名序仮名序コンビであり、、「真名序」という、当時は地位が高い(と言っても逆転過渡期)真名=漢字を担当した淑望の方が地位が高く、年齢も上だったのではないかとは思うが、どうだろうか。

(ところで真名仮名序を紀氏が両方担当って尊いね)

 

唯一長谷雄の子で生年が分かっている淑光君(三男)は869年生まれ。ここから逆算して869年からマイナス2~9くらい(初夜で一発の可能性を入れ結婚年齢を考慮)とすると、10歳前後高視とは離れる。

 

とりあえず

淑望

貫之

高視

の順番は間違いなさそう。あとは866年と872年説両方ある貫之がどちらに近いか。

 

高視は官吏として脂の乗り始めた26歳の時に左遷に連座させられた。その時はこの若さで大学頭兼右少弁。親の威光も当然あるだろうが、まだそういうのが薄めの前期だし実力もちゃんとあったんだと思う。ちゃんと得業生にもなっていて段階を踏んでいるし。

 

【真名序の妄想的な話】

「古今和歌集」は905年(または912年)に完成したわけだが、丁度高視が配流されて京にいない時期に編纂されている。

真名序を書いた時、淑望は民部少丞か大丞。正直文学からは遠い。勅撰和歌集の序文を書かせるのなら大学寮の人間が無難だと思う。とすれば本来は高視が真名序を書いていたかもしれない。

上述の通り高視と淑望と貫之が同年代だと考えると、高視と貫之の交流は不明だが、貫之の人物叢書によれば学生だったということなので、高視のことも知っていただろう。

 

貫之にしてみれば、自分より年下の人間が大学寮のトップにいる。こんなに妬ましいこともない。そしてそんな人が無実で流される。世の無常を目の当たりにするわけだ。

淑望はもっともっと心が痛んだはず。高視の役に、代わりに自分が就いている。高視の悲しみや悔しさを思えば辛い役だったはず。戻ってきた高視は大学頭に復帰するが、さて淑望に何と声をかけたのか。想像するだけで苦しい。

 

ちなみに高視の配流中の5年間誰が大学頭をしていたのかが気になって調べた。とは言え歴代大学頭というのは出て来なくて、当たりをつけて官歴見るしかない。これ一生無理かもと思っていたら割とすぐ見つかった。

三 善 清 行

ここでまた清行最高かよってなるのが904年には大学頭を「辞任」している。これ絶対そろそろ倅戻ってくるよなって退いたじゃん。でも高視戻ってくるの906年じゃん。ちょっとフライングしてるのが清行だなってニヤニヤする。

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